子供の頃はみんなほとんど例外なく絵を描くことが好きだった筈。それが大人になるにつれて次第に忘れられてゆく。終戦の年に国民学校の低学年の生徒だった私も楽しみと云えばワラ半紙に鉛筆で絵を描くことだった。時には家の近くにあった市役所の入口の大きなコンクリートのフロアーに、何時間も這いつくばってロウセキで絵を描いた。それは戦車や飛行機を題材にした戦争の絵だった。兄は学徒動員で工場で鉄砲玉を作り、父は応召で軍隊、母は一家を支える為に働らいていた。家に帰っても雨戸が締って誰もいなかった。その雨戸を自分で開けて、暗い裸電球の下でひたすら絵を描いていた。それだけが心にやすらぎを感じる時代だった。

長じて広告代理店に籍をおき、更にデザインの会社をはじめてからは絵筆とのツキ合いが絶えたことがなかった。同じ創作と云ってもデザインの場合は、あくまでもコマーシャル。クライアントがあっての話だから自ずと純粋の絵を描くこととは異なり、苦しみの連続だったものの幸い私が選んだ仕事は立体のデザインだったので、その長い仕事の中で嫌でも立体表現が身についた。埼玉県の川越市と云う、極めて東京に近い街で育ったものの少年期を過ごしたこの城下町の郊外には、当時まだフンダンに自然があって、魚釣りや野の遊びにどっぷり浸って子供の頃を過した。遊びつかれて河のほとりや草むらで青空を見上げながらまどろんだあの頃がなつかしい。草イキレやせせらぎの音が心地よい子守唄だった。水も大気も澄んでいた。

デザインの仕事を切りあげてカナダに移り住み、かねてからの念願だった風景画にのめり込んだ。もうクライアントの顔色を伺いながらの創作活動とは違って、手かせ足かせを外されて好きな風景を探し求めカナダの西海岸を歩き廻った。2002年、あまり便利になりすぎたバンクーバーを15年振りに離れ、当地サンシャインコーストのペンダーハーバーに移り住んだ。あまり人の手が入っていない野性のたたずまいを描きたかった私は、バンクーバーから北西に60キロメートル離れただけのこの土地に暮らしはじめてからは描きたいモチーフに追われるように俄かに忙しくなった。

以前日本で暮らしていた頃から人をとりまく生活環境について、漠然と考えていたことがあった。自分が生をうけた国に長く暮らしていれば、人は誰しもその国が暮らしやすく安住の地と考えるのは当然で「住めば都」である。よその国を旅して歩き、ああやっぱり自分の家が一番、、と云いながら溜息をついて帰ってくる。でも果して本当にそうなのだろうか。他国に行って何となく落着かず「美しい素晴らしい国だ」と感じても、やがては生まれ育った国に戻ることを考えている。それは結局その国の人が造りだした習慣や風俗や造形にすぐにはとけ込めないからではないのだろうかと考えていた。創成時の地球には人もいなければ、ましてや人が造った習慣などはない。アフリカに生まれて育てばそこがその人にとっての「都」なのである。

そんなことを考えながらこれまでいくつかの他国を歩いてきた。特にカナダに移り住んでから、絵の取材に訪れるあちこちでそんなことを考えるようになった。日本で半生を過ごした私の頭の中には当然の事のように幼年期、少年期を育くんでくれた日本の「今よりはるかに豊かだった自然」のたたずまいがこびりついて離れない。時には泣きたいほどの郷愁に胸が熱くなることもある。しかし、カナダの西海岸そして少し内陸をスケッチブック片手に歩いている時、フト人もいない野原が河原が日本の風景とだぶって見えることがある。そんな時、私はその場にしゃがみ込んでスケッチブックを拡げるのである。云い方をかえれば、こうしてみてくるとカナダ西海岸のたたずまいや野性植物の種類も、日本と緯度にして十数度の違いはあるもののそんなに大きくは変わらない。

カナダのある農家の背戸の陽だまりを描いたことがある。冬の朝日が納屋にそそぎ、鶏が草むらでエサを探し、せわしなく歩き廻っている。馬が木につながれ裏庭に集められた枯葉から湯気が立ちのぼっている。それは正しく日本の農家のたたずまいそのものであり、その傾きかけた納屋から手ぬぐいで頬かむりした老農夫でも出てきたら、自分がカナダにいることも忘れるところだった。心の中のふるさとはどこにでもあるような気がした。

先が見えないこんな時代だからこそ、せめて自分が描く絵は平和で澄んだ絵でありたいと思う。そして自分の描いた絵の中に少年や少女を登場させる。それは昔、草深い日本の野や森の中でむせかえるような緑の香りを胸いっぱいに吸って遊び廻っていた自分の分身そのものなのである。
こんな年になって、外地に暮らしてまで私が未だに追い求めているのは、何のことはない。遠く過ぎ去った「私が少年のころの日本の原風景」なのだ。

 

2007年2月22日号(#8)にて掲載

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