(前回より続く)
私にとってのラーメンは前述のように、日常生活に欠かせないものの一つである。日本に帰った折、真っ先に飛び込む食堂は中華屋さん。九州のトンコツラーメン、北海道のサッポロラーメン、喜多方のラーメンなど一通り味わったあと、二日目あたりに関東の醤油味ラーメンに移行する。まして一杯やったあと、夜更けの街で赤ちょうちんぶら下げた屋台のラーメン屋を見つけた時は天にも登るうれしさである。屋台ラーメン屋のオヤジは出来れば無口な方がイイ。こちらも短かく「ラーメン」と一言呟くように注文する。返事がなくても結構。

昔、屋台ラーメンのオヤジが鍋から鶏ガラスープをおタマですくう時鍋の中をのぞいたら、湯気の中に鶏の首が目をつむったまま浮いていて、ギョッとしたが味には変えられない。出来たてのラーメンをすする。それも寒い路上で食べるラーメンは格別で目が細くなる。元々目が細いので、ハタから見るとほとんど眠りながらラーメンを食べているようだ。食べながら昔子供の頃、街角で食べた郷愁の支那そばの味を想い出しているのだ。頭の中はラーメン一杯で完全に半世紀も昔にタイムスリップしている。次第に体がほぐれて、気持が安定する。私にとってラーメンにはこのように精神安定剤としての効用もあるような気がする。不変的なものに対する日本人の信頼感のようなものだろうか。

その昔日本でデザインの仕事に追いまくられていたころ、神奈川県足柄下郡真鶴の海岸に家を借りたことがあった。仕事でヘトヘトになった身体を休め、魚釣りをして気持をリフレッシュするためだった。「岩」と云う集落のお菓子屋さんの裏にある離れだった。週末になると東京から東海道線に乗って肩で息をするようにその海辺の家にたどりつき、翌朝の釣り支度を済ませると一人で酒を飲んで、ただ昏昏と眠った。

ある時この家で深夜、チャルメラの音を聴いたような気がして浜辺に出てみた。こんな夜中に人気のない集落を流して歩く屋台ラーメンがあるのが不思議だった。しかしまさしくチャルメラの音が波の音にまじるように近づいてきた。見れば小型のトラックの荷台に屋根をつけ、赤ちょうちんをぶら下げた屋台ラーメンである。迷わず手をあげて、その屋台を止めラーメンを注文した。運転していたオジさんが荷台に移りプロパンガスで煮たった湯の中に麺がほうり込まれる。やれ有難や。こんな夜中にこんな人気のない波打ちぎわで熱いラーメンが食べられるのがうれしかった。雨まじりの風がある晩だったが電柱の裸電球の下で、一言二言オジさんと言葉を交わしながら、ラーメンがゆで上がるのを待った。

「ヘイ、おまち!」
お金を払って手渡されたラーメンを見ると瀬戸物のドンブリではなく発泡スチロール製の丼だったが、まあイイヤ味が問題だとばかりすすり込む。うまい関東ラーメンだった。気をよくした私は、ラーメンをすすりながら海の方を見て、明朝の釣りのことを思った。そして「オジさんは毎日ここを流しているの?」と屋台のオヤジに聞いた。しかし風にかき消されたのかオジさんの返事がきこえない。アレッと思って私が屋台の方を振り返った時は、もう屋台はなくて、とっくに車は走り出していたのである。

私はあわてた。あわてても仕方がないけれどやっぱりあわてた。そう云えば「毎度ありい・・・」と云うオジさんの声が聴こえたような気もする。ドンブリも発泡スチロールだし、オジさんに返す必要もないことに気がついた。オジさんとしては、私がラーメンを食べ終るまで待つ必要がないのである。あなたも冷静にこの情景を頭に思い浮かべて欲しい。大の男が夜中に海辺の人気のない電柱の下でラーメンをすすっているのである。事情を知らない人が見たら、一体この人はどう云うわけがあって、この夜中に雨まじりの風が吹く浜辺の電柱の下で一人でラーメンを食べているのかと不思議に思う筈である。箸をとめてニタッと笑ったりしたら、まるで新種のお化けである。屋台のラーメンはやっぱり屋台あっての立食いである。もうそれ以来、二度と発泡スチロール入りのラーメンは食べまいと心に決めた。

怪談「真鶴岩海岸オイテケそば」の段、これにて。

 

2007年1月25日号(#4)にて掲載

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