<前回から続く>
人が何気なく見ている、神様がデザインされた在来種の植物。
数は限りないので、身近なものを見ると裏庭のトマト、キュウリが目に止まる。
これらの野菜類は長い間に人間が改良を重ねたものが多いとしても基本的な生育のしくみは変わらない。

いつも眺めていて思うことは、水分を確実に吸い上げなければならないこれらの野菜の寸法的なシステムが皆違っていて、それぞれ異なることである。

キュウリやトマトは一般的には、人の背丈以上まで伸びて、沢山の葉を重なるように拡げる。一方、植物の根は専門家ではないから詳しくは解らないけれど地中で先に伸びる程、枝分かれして細くなり、水を吸うのはその部分らしい。

トマトやキュウリが全盛期を過ぎた秋の終り、畑の掃除の為に「どうもお疲れさんでした…」等とねぎらい乍ら、これらの野菜を引っこ抜く。
その時、根が「葉が大きく覆いかぶさっている部分」から、必ず、その外側にまで大きく拡がっていることに気づく。
自然の雨水を吸いとる為には葉で覆われている地面には雨が少なくなるから、根はその外側で懸命に水を吸っていることがわかる。

一方、ホウレン草や小松菜は葉が天に向って手を拡げるように伸びる。従って雨水は葉の茎に樋のようにへこんだ部分を流れて根元に集中して落ちる。
これらの野菜の根は決して外に向って張ることはなく真下にある。

どの野菜を抜いてみても、それぞれの野菜の体型に合った水の吸い上げシステムになっていて、地球上の乾燥地と、雨林の植物は又違うのだと思うし一体何種類の植物がこの地上にあるのか知らないけれど神様がその一つ一つのデザインに取りかかった時のご苦労は想像すると怖ろしくさえ感じる。

多分これは自分が生きてゆく為とは云え、半生を費やして物の形を創りだす苦しみを味わったから感じることなのだろうと思う。
それに余計なことだけれど神様のデザイン料は恐らく無料だった筈、誰が払うのか知らないけれど、とても払い切れるものではない。

私はイカが大好物である。特にイカの天ぷらには目がない。たびたび台所に立ってイカに包丁を入れる。
次第にイカの体に興味が湧いてきてよく観察する。イカは胴体が頭の上にある。蛸も同じで実に不思議な生き物だが、旨いんだから仕方がない。

この胴体、つまり筒状の部分をよく見ると、筒の外側を覆っている皮が筒の内側に折り込まれている。
つまり経師屋(関西では表具師)が紙を表装する時、端を裏側にまわして、端がめくれないように接着するあの技法と全く同じなのだ。
しかし更によく見ると、その裏側にまわした糊代部分がイカによって、4ミリ位のもあるし、2ミリ位のもある。中には均一でなく4ミリ接着されているところと皮が足りなくなったのか、わずか1ミリ位の糊代のところがある。
神様直属の経師屋が、仕事に疲れてしまって神様の見てないのをイイことに手を抜いたような気がして、ツイ顔がほころんでしまう。
一度おヒマな折にイカの筒の端の部分を観察してみて下さい。

さて私が東京港区の泉岳寺近くに住んでいた二十五年も以前のこと。家の向いに大学の体育の先生が住んでおられて、行ったり来たりしながら、よく酒を飲んだ。大戦末期に航空兵として偵察機に乗っておられたバリバリの戦中派だった。

ある時そのM先生が怖い顔をして我家に来られた。何だかバカに機嫌が悪い。
ビールを飲みながらM先生が話すには…。
今日学校が休みなので女房の留守中に家の中の片付けものをした。普段あまり使わない物置を開けて整理をしていたら、女房が買い溜めた靴が出て来て、それも大して変りばえもしない靴が六十足もあった。
私なんか三足で、とっかえひっかえ、やり繰りしているのに一体何事だ!と憤慨しておられる。
最後に一言…
百足じゃあるまいし!と云ってビールで赤くなった顔で帰ってゆかれた。
M先生がドアを締めて帰られたあと、それまで笑いをこらえていた私も、とうとう吹き出した。
それにしても神様はどうしてこんな沢山の足をムカデに与えたのだろう。私だったら、足がもつれて歩けない。靴代も大変だ。

提灯アンコウと云う魚は見るからに機敏に餌を追える魚ではなさそう。それを察して神様はこの魚の頭の先に発光体のついた釣竿を与えた。スゴイ発想だと思う。何だろうと近づいてきた小魚をアンコウはパクリ!
「お前は横着者でノソノソしている。せめて一生懸命、魚を釣って生きてゆけ…」と神様が云ったかどうか。何しろ海の中で海釣りができるんだから、こんな楽はない。

 

2010年10月21日号(#43)にて掲載

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