物ごころついた頃から当り前のように地球上にいる生き物を見ながら暮らしてきた。
郊外に遊びにゆけばトンボがスイスイと空を飛び、タニシは大きな殻を背負って田圃の水の中を這い廻っている。
池にはオレの領域だと云わんばかりの顔をして蛙が空をにらんでいるし海辺では小ガニがハサミをかざして砂の穴に逃げ込もうとする。
当然の事のように何の不思議も感じないで、そんな生き物たちを見ていた幼い時代。

成人して物の形を創り出さなければ生きてゆけないデザインと云う仕事に携わることになった。
デザイン。一口で云えばそれだけのことだけど、この仕事には泣きたくなる程の苦しみを味わい、己の才能の乏しさにクヤシマギレに、くわえているタバコを前歯で思い切り噛んで歯が二本音をたてて折れた。
私の場合は立体造形が主で万博のようなイベント会場の計画が多かった。
グラフィック・デザインと大きく異なるのは、まかり間違っても自分がデザインした造型物が倒れたり崩れたりして、人を傷つけたりしないことで、いつもその重圧があった。
加えて何のデザインでも云われることだけれど二番煎じは絶対に許されないことだった。
その後、この地上に生息する動植物に改めて目が向いた。
人が創り出した物や形はともかくとして在来から生息する生きもの…。誰かがデザインしなければ、その形態や機能が存在する筈はないのである。
やはり創造主の存在を認めざるを得なかった。創造主でなければ神様と云っても良いと思う。
一体どう云う経緯を経て種の生物体が完成したのだろう。自分が物の形を作る仕事に携わっただけに興味がつきない。
ましてや生き物の形はフォルムだけで決めれば良いと云うものではない。
その生物が生き永らえてゆく為の機能がそなわっていなければ絵に描いた餅である。
その為には、その種がどこでどう云う生活を営むかによって内蔵の位置や口の大きさが違ってくるだろうし、植物であれば葉の大きさや背丈、葉脈のパターンまで考えなければならない。
一種の動物を例にとっても、その動物が寒冷地で暮らす運命にあるのか、それとも暑いジャングルの中で生活することになるのか、それによって皮膚の厚みや呼吸のシステムを考えなければならない。
血液の成分だって一律に同じと云う訳にはゆかない筈だ。

こう考えてくると一つの種を誕生させると云うことは並大抵の苦労では済まない。
何十人も何百人もの科学者が寄ってたかって完成させるスペースシャトルにも匹敵する程の大仕事の筈だ。
ここで又、考えてしまうのだ。一体全体、神様はどうやって…。唯々、創造主の能力にひれ伏して降参するしか無いのである。
それも一つや二つの生物ではない。地球上には数え切れない程の生き物が生息し、どの種も自分の生きる環境を得てつつがなく暮らしている。神様のデザインにミスが無かった何よりの証しであり、もう驚異としか云いようがないのである。

さて、いつまで驚いていても始まらない。
そこで少し視点を変えて在来種の生き物に目を向けると人間が自然界から巧みに神様のデザインを利用させて頂いていることに気がつく。
例えば、人を刺すあの蜂。私も昔、塀に登っている時、大きな蜂に首を刺されてころがり落ちた経験がある。並の痛さではない。
蜂の体色は、いろいろあるらしいが、特に黄色と黒のパターンが多く、この配色は人に危機感を与えることが昔から知られている。白と黒は鮮明に遠くからでも識別されるが、危険なイメージはない。
それが人間社会に生かされているのがご存知の交通標識である。特に事故が予想されるエリアに多用されている。

人に嫌われ者のサメ。目は緑色で確かにあまり親しくはなりたくない。冷酷な表情だ。
しかし改めて見ればみる程彼等のフォルムは美しい。先づ無駄がない。
水圧の強い海の底の方で自在に動き廻るサメの体のデザインを見ると考え抜かれた流体力学を感じざるを得ない。
体はどちらかと云えば偏平であり、頭はクサビ型で、水の抵抗に負けない。体の横ゆれを防ぐ尾ビレと背ビレが大きく、胸ビレもほぼ四十五度の角度で突き出され極めて安定感がある。
機能的に完成していると、立体デザインの常で形自体も美しくなる。
日本の或る有力自動車メーカーのメイン車種のデザインに、このサメのフォルムがとり入れられた事は知られている。
<次回に続く>

 

2010年10月14日号(#42)にて掲載

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