<前回から続く>
東京・神田駅のそばの歓楽街の中心にデザイン事務所を持つことになってしまった。
周辺を改めて眺めると寿司屋をはじめ、トンカツ屋、焼鳥屋、うなぎ屋、中華そば屋、日本蕎麦屋、定食屋、鮮魚刺身の居酒屋、牛どん屋にまじって韓国の焼肉屋、スパゲッティー屋まで、よくもこれだけ集まったと思う程でパチンコそれにサウナ風呂まである。

毎日一軒ずつ食べ歩いてもかなり時間が掛かる。昼食はともかくとして、仕事が終ったあとのリラックスできる店をぜひとも探したい。
仕事は当時好況だった日本の経済に連動して極めて多忙。広告やデザインの需要が多いと云うことは世の中が勢いよく動いている何よりの証しだった。従って仕事が終るのも毎日八時九時。これでは長続きしない。
なんとかして頭を切り替える必要があって仕事が終ってからホット一息つける店を探した。

その結果、上戸の私にピッタリの店を三軒みつけた。一軒はざるそばをツマミにチビチビ日本酒を飲ませてくれる名店の小さなチェーン店だった日本蕎麦屋S庵。

二軒目は、これも小さい、間口が一軒半の店でありながら、築地市場からその朝、店主が仕入れた鮮魚を目の前でさばいて食べさせる居酒屋であるE。
そして三軒目は店内が立ち込める煙でよく見えない味自慢の鳥肉の焼鳥屋で店の名前は忘れてしまった。
私にとってこの三軒の店は、神田の三十五年も昔の仕事場を思い出す時、懐しく、瞼に浮かぶ忘れられない店になった。
三軒のこれらの店に共通することは使用人のいない店主だけの店で、この三軒の店は国電山ノ手線のガード下に額を寄せるように隣り合って並んでいた。

先づ味自慢の焼鳥屋。店の名前はもう忘れてしまったが焼鳥と大きく書かれた赤い提灯が夕方になると灯が入って神田の風に揺れていた。
店主は当時の私と同じような年で店の中は鶏の串を焼く煙ですべての物が黒く煤けている。
カウンターに8人も座れば一杯の店で目の前で焼く鶏の串焼きの煙で客は目をしばたゝきながら焼鳥を頬ばる。
店主はこの上ない頑固な男で味には絶対の自信を持っていた。
ある時、たまたま私一人しかいない時、彼が思いつめたような真面目な顔で俺は近い内に特許庁へ行く…と言い出した。
何しに行くんだい?聴いた私の目を彼が見据えて話した。まあ、これを食べて見つくれ。彼に手渡された鶏の串焼きは一風変っていて鶏肉に塩を振ってシソで巻いて焼いたものだった。

「どうだウマイだろう!」
たしかに旨かった。やわらかい淡白な鶏肉とシソの香りが口中にひろがって、なる程自慢するだけの事はあると思った。
俺が考えたんだヨ!少々ヤブニラミの彼の目が光っている。私の目を見据えて話しているのだが、私よりズッと遠方を見ているように見える。

彼は、この串を特許庁へ持っていって役人の目の前で焼いてたべさせて、特許を申請する…と云う。
だけど焼鳥で特許がとれるのかなあ…と私。例えば仮に特許が取れたとしても日本全国の焼鳥屋を一軒一軒調べて無断でこのシソ巻きをやっている店を摘発できないんじゃないかなあ…。
それに既にシソを巻いて焼いている店があるかも知れないぜ。

そうか…駄目か…急に鉢巻きをしたオヤジの目に力が無くなった。気の毒になった私は続けた。
でも、わからないヨ、やってみなければ。もしかすると何か方法があるのかも知れないヨ!
その日以来その話は彼の口から出なくなった。その店に行くたびに私は鶏のシソ巻きを焼いて貰った。ある寒い冬の日に私は又、例のシソ巻きを注文したが彼の返事は「今時シソがあるかヨ!」

その焼鳥屋から左へ二軒目は日本蕎麦屋のS庵だった。そばの茹で加減が少し固目で私の好みだった。
昼食は勿論、仕事が終わったあと、冷たいザルソバをツマミに熱燗で日本酒の徳利をかたむけるのが好きだった。
カマボコをワサビ醤油でつまみながら飲む酒も絶品で一日の疲れが抜けてゆく。

昔は蕎麦屋で酒を飲む人が多かったが今はあまり見かけない。蕎麦屋は立派な飲み屋なのだ。
新蕎麦が出回る季節に、新しい蕎麦粉に熱湯をそそいでかきまぜただけの「そばがき」、それを蕎麦たれにつけて食べながらの日本酒は蕎麦好きにはたまらない。
飲み終るころにはお腹も一杯になって出来上る。

S庵のご主人は小柄で至って物静かな人で、先ず調理場から出てこない。客の係りは豊満なタイプの奥さん。色白で早口の美人だった。旦那の倍の体躯である。
唯、この蕎麦屋には「ケンカ蕎麦」と云う別名があった。
(次回に続く)

 

2010年9月30日号(#40)にて掲載

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