五、六年前のこと。腰が痛いと思っていたらある朝急に動けなくなった。椎間板ヘルニアだった。
当地サンシャイン・コーストには対応できる病院がなくて、アンビュランス・カーにマグロのように横になったままフェリーで海を渡って、ノースバンクーバーの病院にかつぎこまれた。
手術を受けることになったものの検査や順番待ちのために四、五日は唯、痛みをこらえて、うなっていなくてはならない。この間の辛さは思い出したくない程。
遂に痛みに耐えられなくなって看護婦に懇願した。
「注射で痛みを止めて欲しい…」
訴えるような言葉とすがるような目つきが効いたとみえて、「OK」という返事が返ってきた。
やれ助かった。痛みさえなくなれば幾日寝ていてもイイヤ…と思った。脊椎から飛び出した軟骨状のものが神経に触れるのは、それほど痛い。
承諾書のような書類にサインをさせられてモルヒネ(モルフィン)の注射を射って貰うことになった。看護婦が人の気も知らないで鼻歌を唄っている。こっちは死ぬ程痛いと云うのに…。
腕を差しだしたら、腕ではなくてお尻を出せと云う。今迄風呂屋以外で人様にお尻を見せたことがないので少々うろたえた。
大きな注射器だった。薬の効き目は抜群で三分もすると見る見る内にあれ程の痛みが薄らいでくる。何故もっと早く頼まなかったのだろうと後悔した。看護婦が天使のように見えてきた。
それから味をしめて、何度も注射をせがんだ。OK!いつも返事は同じ。それから手術までの数日間は痛みを感じることはなく熟睡できた。でも元々食欲もなく出される食事は私が最も苦手なミルクの入った流動食ばかりで、とても手が出ない。ドンドン体力が落ちてゆく。幻覚を見るようになったのは、その頃からだった。
そばについて本を読んでいた家人がフト見ると、寝ている私が妙な手つきをしている。
なんだか編物をしているようでもあるし、糸をほぐしているようにも見える。それが、しばらく続く。うつろな目で目覚めた私に、今何してたの?と聞いた。
「釣りの仕掛け作ってんだヨ…」と云って又眠り込む。明らかに薬の幻覚だった。普通の夢とは違って半分は目覚めているし、手も動く。
実に細かそうな手作業をしている感じだったそうで、私の返事を聞いて家人は吹き出したとか。
確かに私の趣味は魚釣りでいつも釣行の前は細かい鉤やテグス、更に重りをつける作業をやっている。。実に面倒な仕事だが、その段階でもう私の釣りは始まっている。
しばらく釣りにも行けないストレスが出てしまったらしい。
それから、数日後又、寝ている私がおかしな手つきをしている。
何か、掻き廻したり、箸で何かつまんでいるような格好もするしそれを食べたりしているように見え又、ボーッと目覚めた私に聴いた。
「今、何してたの?」
私の返事はためらいもせずに
「天ぷらだヨ。天ぷら揚げてんだヨ」
それだけ云ってまた眠りに落ちる。又、家人は口をおさえて吹き出したらしい。私は全然おぼえていない。
白状すれば天ぷらは私の大好物。考えてみれば、アンビュランスカーで搬送されたあたりから殆ど何も食べてなかった。更に病院で出してくれる食事は、日本食大好き人間の私には、どうも鳥の餌みたいにみえて(ゴメンナサイ)喉を通らず、水だけ飲んでいたので、腹がすききっていた。
家の天ぷらは大体いつも私が揚げることが多く、普段食べている好物を食べたい願望が遂にモルヒネによってベッドの上で行動となって表れたらしい。おまけに揚げ立てをつまんで食べたりしている。寝てまで喰い意地が張っている。
モルヒネによる幻覚を見たと云う友人がいてどんなものを見たのか聴いて見た。
この人の場合は私と違う。病室の外に樹があって、その樹に登っている人と会話をしたらしい。窓越しに、その樹上の人に友人が「そこで何してるんだ?」等と聴いたりしたらしい。
さて、明日手術と云う夜、痛みは薄らいでいるものの、モウロウとした頭で点滴の器具を引きずって病室を抜け出した。
家人は家に戻った夜中の三時頃だった。モルヒネが効いている。確かトイレにゆくつもりで歩き出した筈なのに廊下をどこまでも歩いてゆく自分に気がついた。
意識の中の半分は病院にいると思っているものの、夕方までいた家族をなんとなく探し歩いていた。
半分は自分の家だと思っていて、オレの家は結構大きいなあ…等と思いながら、両側に並んでいる医療器具を収納してある部屋のドアを一つ一つ開けてのぞいたりした。
こんな夜中の遅い時間なのに一体家の連中はどこをホッツキ歩いているんだろうと思い段々と腹が立ってくる。完全に頭が、こんがらがっているのにその時はわからない。
その内、歩いてくる看護婦に捕まった。「ここはあなたの家じゃないの。あなたは今病院にいるの。ベッドに戻りなさい。OK?!」
その声で少し目が覚めて自室のベッドに戻った。でもまだベッドの下をのぞいて、ある筈のない画材を探したりしている。
どこへ隠したんだろう等と呟きながら。モルヒネに完敗。

 

2010年9月9日号(#37)にて掲載

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