大きい音が苦手で、それも川の水が轟々と流れる音や、風がビュウビュウと鳴る音にはたいして苦痛を感じない。
うるさいな…と思うのは人が作りだす人為的な音である。
益々、世の中に機械が増えて、騒々しくなってくる、東京港区に住んでいた頃、夜中にフト目が覚めて窓を開け外を見廻した。高い建物の六階だったから午前三時と云えども世間は一晩中明るく見えてまだ、かなりの人が起きて働いている錯覚にとらわれる。
ゴゥーと云うような低い地鳴りを思わせる音がきこえ、これは一体何の音なのだろうと思った。
勿論、時間が時間だから、工事の音などはきこえないけれど、この地鳴りのような、うなるような音は一晩中絶えない。止まることは無い都会の音。多分、変電所の音か電線を通る電気が立てる音か、さもなければ建物の空調設備の音だと思った。
それでも東京が一番静かになる時間がある。午前四時だ。車も最も少なく、電車が走り出すには少し早いと云う時だ。
日本でも、今住んでいるカナダでも同じだが一番『うるさいなあ!』と思う音、それは都会を歩いている時に嫌でも耳に入ってくるバスとトラックが走り出す時の音である。
これは一番こたえるし、堪らない。バス停をバスが離れる時の音は特にひどくて、グワアー!「これでもか!」と云うようなエンジンの轟音。
一体どこの国が製造したバスだろうと睨んだりする。ほとんど絶望的な大音響で何かの工場が移動しているとしか思えない。
どうして、ここまで大きな音を立てなければ動けないのか。大きい車だから仕方がない…と云うのは理由にならない。エンジンを造る人は、もう少し考えて欲しい。象だって大きいからと云って歩く時大音響を立てて歩かない。大きい糞はするけれど…。
物を落として割れる破壊音は決して快いものではないし、物と物が当って出す激突音はもっと堪らない。キナ臭くさえ感じる。
人と人の会話も家の中で話している時は、おのずとそれなりの声量があれば足りる。
河の向う岸にいる人と話すのとは訳が違う。TVなど見ていてフランスの言葉と日本語はきれいで耳にやさしいと思う。
よく聴いてみると濁音が少ないし、大声を出さなくても濁音を表現できる言語のような気がする。もっと云えば洗練された言語文化だと思う。
見苦しい物や情景は、目を閉じれば見えなくなって、とりあえずは解放される。
音はそうはいかない。イチイチ手で耳をふさげないから頭の中まで無遠慮に侵入する。そしてその人の思考を止めて頭の中を一時的とは云え支配してしまう。イマイマしいと思う。
人は頭で物事を考える。
頭の中の脳で考え、情緒に身を委ねたりする。生き物の思考作業の中枢である。お尻で物を考える訳ではない。
脳は耳の鼓膜に極めて近いから音の影響をストレートに受ける。
生きものにとって、そんな大事な感覚器官を望みもしない嫌な音で一時的とは云え占拠されるのは一種の暴力にも等しい。
私が住むカナダ西海岸の小島にもジワジワ開発の音がする。森の樹を倒して住宅を建てるスキ間をつくる音だ。
地球の人口は年々増え続けているそうだから仕方のないことだとは思うが、樹を切る時に使うチェーン・ソーの音は、かなり遠くまで響き渡る。
樹を倒す時は、豆腐屋のラッパのような音を10回程鳴らして、これから樹を倒すゾ…と近くの人に知らせる。
十秒程するとドドーンと地響きがして樹が倒れたことがわかる。
犯罪は先ず無い土地だけれど、ハイ・ウェイをたまに走る救急車やパトカーがピーポピーポとサイレンを鳴らす。すると殆どの家が飼っている犬が、その音に同調するように遠吠えの合唱をする。遠くで犬の遠吠えが始まったなと思ったら途端に近所の犬も一斉に混声合唱を始める。
隣の四匹の犬も鳴きだすとまるで田舎のオペラのようでこれはどうにもならない犬の血が野生に戻って鳴かせるようだ。
昨秋、近くの山に一人で松茸を探しに行った。全く音のしない森の中で尿意を催して放水作業に入った時、ウシロの方でピシッと枝が折れる音がした。
いつも熊五郎を意識しているから、全身の毛が逆立つのを感じた。同時にスタートしていた排水作業がその衝撃で自動的に止まった。オートマチックなのだ。幸い自然に杉の枝が折れる音だったらしく、松茸は収穫ゼロで家に戻った。排水栓のオートマチック機能をテストしに行ったようなものだ。
人間なんて勝手なもので全く無音…と云うのも落着かない。夜中に寝ている時、全く音がない時がある。暗闇の中の無音は又、寝られない。
その無音の中に、よく耳を澄ますと、かすかにキーン…と云う音がする。どうも自分の頭の中で鳴っているらしい。
この音がもっと大きくなったら、もう逃げようが無い。

 

2010年8月12日号(#33)にて掲載

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