今はどうか知らないけれど日本が経済成長華やかなりしころ、都会の夜十二時前後はタクシーの乗車拒否全盛で、よほど遠方に行くお客でない限り乗せてもらえなかった。
タクシー会社の労使が、いつも待遇問題でもめていて乗車料金も、アレヨアレヨと言わんばかりに上がっていく。乗客も運転手の顔色を伺いながら、おそるおそる行先を云ったりした。
当時、自分も小さなデザイン・スタジオを持って目の廻るような毎日。大事な仕事の打合せが深夜まで続く。その日も私にデザインを依頼するクライアントのOさんとのミーティングが長びいて、仕事場を出たのが夜中の十時を廻っていた。
頭が仕事のことでガチガチに固まっていて、酒でも飲んで身体をほぐさないと、どうにも一日が終わりそうもない。一杯飲りましょうか…と云うことになった。
当時、私は東京・小金井市に住み、Oさんは狛江市に住居があったので帰りのことを考えて仕事場の神田から新宿に移動して一軒の居酒屋に腰を据えた。
飲みだしたら、どうしても又仕事の話になる。なんのことはない、さっきの延長戦である。日本人はつくづく真面目だなあと思った。
フト気がつくと、もう新宿からの最終電車の時間が近づいている。二人共、電車をあきらめて同じような方向だからタクシーで帰ろうと衆議一決。仕上げのお湯割りをオーダーした。
さて、タクシー乗場にきて見れば提灯行列のように並んでいるタクシーが例によって乗せてくれない。翌日は日曜日、何としてでも二人共家に帰りたい。
何か方法はないだろうか。二人して街灯の下で知恵をしぼった。その結論は、O氏が乗車拒否のタクシーを摘発する運輸省の役人、私がタクシーに乗れず困り果てているタクシーの利用客に化けて一芝居打つものだった。
O氏がどこからか黄色い紙を拾ってきてコートの腕に輪ゴムで止めた。暗いから何となく取締官に見えないこともない。私も覚悟を決めた。ワイフが出産間近の乗客になろう。
Oさんが並んでいる先頭のタクシーに向かって歩き出し、私も少しうなだれて後に続く。もう芝居は始まっている。私が先づ運転手に行先を言って話をする。案の定ことわられた。私は、うしろ手を組んで街灯の下に立っているO氏に苦情を云っている風に装った。さあ取締官の出番である。
O氏がツカツカとタクシーの前に廻ってナンバー・プレート等を見て紙にメモしている。次に運転席の窓を開けさせて云った。眉間に八の字寄せて「君はこの方を乗せないんですか。今、乗車拒否の取締中なんだが、後部のドアを開けたまえ!!」強烈な一言だった。ハイ!運転手があわててドアを開けた。私が、ためらいがちな風情で乗り込むと続いてO氏も座席に座った。
「この方は…イヤこの方の奥さんが今産気づいているんです。早く小金井まで連れてってあげなさい!アレッ名板が無いじゃないか、どうしたのスグ入れ給え!」運転手の上に差し込むドライバーの名前の札を運転手が抜いてあるのを見つけたO氏のとっさの駄目押しだった。
ア、ハイ…と云って運転手がすぐ札を入れた。
「本官はこれから狛江の本部までいくので、小金井の前にそこで降ろしてくれ給えイイネ!」嫌も応もない畳み込みだった。縮み切った運転手が直ちに走り出したのは云うまでもない。
狛江のO氏の家まで取締官と乗客との会話が続いた。
運転手が聞き耳を立てている。「国会でも今、乗車拒否が問題になってましてねェ…」とO氏。「そうでしょうねェ…いや今日は本当に有難うございました」「イヤイヤ当り前のことですから」
暗くてとても取締本部があるとは思えない路地でO氏が降りた。「君。よろしく頼むョ」と運転手に取締官の最後の一言。
さあ問題はこれからだ…と思った。あと家まで三十分なんとか乗り切らねばならない。「取締の本部ってのはズイ分ヘンピなところにあるんだねェ…。」「そう云えばそうですねェ…」ととぼける私。いよいよ正念場だ。運転手がジッと考えている。「普通、名板なんて云わないんだヨ。名札って云うんだよな…なんだか変だな…」少し危なくなってきた。
本官はもう多分高イビキだと思うと貧乏クジを引いたようだ。なんとか世間話に持ち込もうとするものの運転手が話しに乗ってこない。
それどころか、バックミラー越しにチラチラ私を観察している。あと少しだ頑張ろう。
家の近くに斎藤茂吉の精神病院がある。そうだここで降りよう。家の前で車を止めて産気づいている筈のワイフが出てきたりしたら、この芝居はオジャンだ。お腹が出て恰幅のイイO氏の芝居は、ほゞ完璧だったのだから…。
「その病院の前で…」幸い暗くて精神病院の看板が読めない。チップをはずんで転がるように車を降りた。「お宅の奥さんは精神病院でお産すんの?」等と云われない内に…。

 

2010年7月22日号(#30)にて掲載

 

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