タバコの規制が厳しくなって喫煙党には辛い世の中になった。
公衆の乗物の中は勿論だし、人が大勢集まる場所も禁煙。自分の車の中も人が乗っていたら吸うわけにはゆかない。
カナダはレストランも、とうに禁煙となり、外に出たらイイだろうとドアをあけて外気の中で一服と思えば、ドアから何メートルも離れなければ吸えないことになった。
かくなる上は人の歩いていない歩道のベンチで…と腰かけて、やおら一本口にくわえた途端どこかのおばあさんが近づいて来て恐い顔でコンコンとタバコの害について説教され、一にらみされて、タバコをやめろと念を押される。
もうどうにも吸う場所が無くなって、あとは山奥か自分の部屋か、さもなければ一人でボートに乗って釣りに出た海の上しかタバコを吸えない時代になった。
市街地を通るとオフィス・ビルの外に出たところ、それも端の方にスタンド型の灰皿が置かれて何人かの愛煙家がキョロキョロ辺りを伺うように大急ぎでタバコを吸って急ぎ足で又ビルの中に消えてゆく。
喫煙党の私から見ると何だか追いつめられて行き先がなくなった戦国の忍者みたいに見えて身につまされる。
今のご時世、人と一緒に仕事をしなくてはならない愛煙家は本当に大変だと思う。
一体、誰がこんなものを発明したんだろう…とフト考える。元々なければ吸わないのである。
そう云う私も二十才からタバコを吸い出した。親しい友人やワイフなどより、はるかにタバコとの付き合いは長い。
日本専売公社の昔のタバコのキャッチ・フレーズに「たばこは心の句読点」とか「今日も元気だタバコがうまい」と云うのがあった。
このコピーを読んで逆にタバコを吸えないと自分は元気じゃないんだ…と考えたフシもあった。名コピーだった。
しかし今は違う。
これだけタバコの害を並べたてられれば、いくら何でも「百害あって一利なし」と云う言葉を重く受け止めている。
人様に迷惑をかけまい…と心に誓って久しい。タバコが嫌いな人にとって、人のタバコの煙を吸わされる不快さは重々承知している。
だから過去何度も禁煙をした。これ程簡単なことは無い。でも又いつか吸い始める。
親しい友人に「意志が弱い」と云われ、下を向いて自分でも、その通りだ…と思う。
以前タバコを吸っていて今はやめた人にも断煙しろ…と云われるが、この場合は何となく説得力に欠ける。でもご忠告は有難く拝聴する。
どう云う時に自分がタバコを吸いたくなるのか考えて見ると、先ず第一は気持を安定させて落ちつきたい時。第二に照れ臭い時。これは煙幕であり、第三に気持がハイになっている時であり、第四に食事が終った時、もしくは楽しい酒の席である。
特に私の喫煙は第一番目の気持を安定させ冷静に保ちたい理由によることが多い。
絵を描いている時に特にそれが顕著である。
未熟なためもあって、一つの絵を仕上げるまでに何度も壁にぶち当る。大失敗もする。
すんなり最後まで進むことはまず私の場合ありえない。
描いている絵が次第に当初の目論みから外れて生彩を欠いてきた時、急に落ちつかなくなって慌てだす。一種の気持の「動転」である。
そんな時、少し大ゲサに云えば、その絵を正視できなくなって、タバコをくわえる。煙でカーテンを作って、その絵がよく見えないようにする。
全く見えないと困るから煙の間からチラチラその絵を盗み見する。顔はソッポを向いているけれど、横目で絵を見ながら、どうしたものか考えている。厄介者をみるように。
このまゝあきらめて描くのをやめようか…。それとも何とか挽回する方法があるのか救け出す方法があるのか…と無い知恵をしぼる。災害復旧に取り組む国土交通省のお役人のよう。とにかく冷静になろうと必死なのである。
こんな時どうしても精神安定剤としてのタバコが私には必要で、これはチューインガムでは代行できないのだ。クチャクチャ甘いものを噛みながら物を考えるような器用なことは、どうも私にはできないのだ。タバコは私にとって「百害あって一利あり」なのである。この一利は捨てられない。
先年亡くなられた名映画監督の市川崑さんが片眼を閉じてカメラをのぞきながら口にはいつもタバコをくわえておられた姿を思いだす。
天国の監督にその理由をお尋ねしたい気もするこの頃である。
本当のことを云えば、やっぱりタバコはやめなければいけないと思う気持が強い。
そろそろ二十数回目の禁煙にトライしよう。地球温暖化を阻止する義務もある。しかし今も下手な文章にうろたえ乍ら気持をしずめようと煙幕を張っている。困ったものだ。

 

2010年6月10日号(#24)にて掲載

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