私が物心ついた頃は食パンのような格好をしたラジオでそれも時々音がでなくなって父がラジオを棒でたたいたり、平手打ちをしたりすると又鳴り出すような代物で三球スーパーとか五球スーパー等と云った。
TVの本放送が始まったのは昭和二十八年。勿論、各家庭にTVが普及されるまでは時間がかかった。
二十九年に始まったプロレスの実況中継は大人気で神社の境内などに設置された一台のTVを見ようと、人が大勢集まり、木に登って力道山の活躍を見て昂奮したオジイサンが木から落ちて亡くなったりしたこともあった。
それからしばらくして一般家庭にもTVが置かれるようになったものの、はじめの内は早くTVを買った家に近所の人がゾロゾロ揃って見に行った。夕食後の人気番組の時などは集会所のようになり、家の人がTVの前に座ブトンを用意したりお茶をいれたりする。
TV本体がやたらに大きくて物々しく、前面に劇場のような垂れ幕まであって家の人が番組が始まる時、その垂れ幕をウヤウヤしく上げる。何が始まるかと思うようだった。
母の姉が近くで薬局を経営していて、主人は客の無い時はいつもTVの前に置かれた火鉢に手を置いて始まったばかりのTV放送を見ていた。寒くない時でも火鉢の場所はいつもTVの前だった。
祖母は朝の一ときTVの前に正座してニュースを見るのが日課で、アナウンサーが「おはようございます」と云うと律気に頭を下げて「おはようございます」と返事をしていた。
祖母はTVの箱の中に小さい人がいると信じ込んでいて自説を曲げなかった。
その頃から料理番組があって、祖母は料理の手順を手に持ったメモ帳にたんねんにメモをとっていて番組の終りに「ありがとうございました」とていねいに頭を下げていた。
義理の叔父に当たる薬局の主人は鼻の下にチャップリンのようなチョビヒゲを生やした人でスポーツ番組、とりわけ相撲放送が始まるとTVの前から離れない人だった。
TVの前に置かれた火鉢はこの叔父にとっては無くてはならない大事な小道具なのだ。TV放送にも「参加型」と云う見方があることを知った。
特に相撲の取組みが幕内に進んだ頃から火鉢の前に座った叔父の動きが活撥になる。火鉢は叔父にとってヒイキの関取りの対戦相手にとって変るのだから火鉢もたまらない。
取組みが長びくと、いろんな技がくり出される。
ヒイキの力士になり切ってしまった叔父の技もめまぐるしく変る。ヒイキの力士が突き技に入った時、叔父も火鉢を小キザミに突く。土俵ギワで押しに転じた時は叔父も身を低くして火鉢の下の方に手を当てて押す。大きい火鉢だから押すのも大変で力が入る。
顔がだんだん赤くなってくる。目はTVの画面に釘づけになっている。相手力士が土俵ギワで引き技を出したりすると手を火鉢のへりに突っぱって前に落ちないようにする。相撲を見るより面白い。
寒い時は火鉢にヤカンが乗っているので見ている方がハラハラする。
取組みが終わって勝負がついた時は火鉢は元の位置から三十センチも前に移動している始末で、我に返った叔父は照れ臭そうな顔をしながら元の位置に戻す。
こんなことを結びの一番まで何度となく繰り返すと、かなり体力を消耗し、あまり体が丈夫でなかった叔父は力の入った取組みのあとは肩で息をしていた。
家人はこんな叔父をあきれたような顔で見ているのが常だった。
のちに相撲協会の理事長をつとめた名横綱栃錦が横綱に昇進したのは昭和二十九年。それを追うように横綱若乃花が誕生した。名大関だった貴ノ花関の兄である。
両力士共、技は伯仲していて似たような体形でもあり、その取組みは相撲ファンを湧かせ、圧巻だった。二人共、技の神様のような関取りで「栃若時代」と云われたほど。
ある場所の千秋楽にこの両力士による優勝決定戦があり水入りの大相撲の末、それまで優位とされていた栃錦が若乃花に押し出されて負けた。その後間もなく栃錦は引退した。美しい引き際だった。
叔父が勿論この大一番を火鉢の前で観戦したのは云うまでもない。例によって参加型の観戦だからこの大相撲には力が入り過ぎて、とうとうヤカンをひっくり返し、そばでウツラウツラしていた猫が素っ飛んで逃げた。叔父は勝負がついたあと、しばらく息を整えていたそうだ。
聴くところによれば間もなく立体TVが発売されると云う。叔父が健在だったら、さぞ参加型の観戦に力が入ったことだろう。
祖母も叔父もそれから叔母も亡くなってから、もう永い年月が経ってしまった。みんなこよなく優しい人達だった。

 

2010年5月20日号(#21)にて掲載

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