苦節十年などとよく云われる。何の道でも必ずそれが実るまで最低はかかる年月を云い表している。
カナダに移り住む前に、小さな英語の学校で普通だったら三ヶ月の英語の講習期間を四ヶ月かかって学び、自信満々笑みをたゝえてバンクーバー空港に降り立った。今から二十四年も昔の話である。

二十四年も英語圏に住んでいれば、大抵の人は英語も堪能になり、先づ日常生活に不自由を感じなくなると云う。
実は私も図々しいことにそう思い、期待していた。
せいぜい十五年の辛抱だと思っていた。
それがとんでもない誤算だった。自慢ではないがもう既に苦節二十四年…未だに、まともな会話は無理で、無理をして喋ろうとすれば舌を噛む。命がけの会話とすら云える。

元々、語学の素養がないところにもってきて、実に不運なことに絵など描いている。
普段、英語を話す人と接する仕事であれば、まだ少しはマシだった筈なのに絵に英語は全く必要でない。
それどころか、音も会話もない静かなところで筆が進むから始末が悪い。

大体、私が幼年期に触れた英語が悪過ぎた。誰が考えた言葉なのか、ひどい言葉を覚えている。今だってその言葉だったら完全に頭の中に入っているから、いつでも口に出せる。
誰から教えられたのか…。水道の蛇口のことを『ヒネルトシャーデル』
饅頭のことを『オストアンデル』などとしゃべって悦に入っていたんだから話にならない。
蛇が血を流しているのを見て『ヘービーチーデーだ』と云った友達がいた。
これでは進歩のしようがない。

だからカナダでの生活の中で、どうしても大事な用事や買物がある時、まして人に頼れない時は、あらかじめ交されるであろう会話を想定して組み立てなければならない。
こう云えば、多分相手はこう云うだろう。その時はこう云おう。最悪こう云う質問があったら、こう云えばいい…とマニュアルを作って出掛ける。
ピッタリ自分が考えた通りに会話が進んだ時はザマアミロ!と天にも登るような快感を覚え、一夜にして英語に開眼したような錯覚を感じて、帰り道などは歩幅も大きくなって、ゆったり歩いたりする。

しかし、その反対に相手の話が予想もしなかったような方向に展開した時は惨めである。あらかじめ想定したシナリオのどこにも引っかかるところがなくなればウーッとかアーッとか擬音が多くなり、笑ってごまかしたり、動作で解らせようとするから、急にパントマイムが始まったようで人はビックリする。

俄仕立ての英会話
始めニコニコ
あとはグズグズ

バンクーバーに住みはじめたころ、コマーシャル通りのレストランでビールを数本飲み、勘定して貰おうと思って「ビル・プリーズ」と云ったら又ビールが出てきた。無理矢理飲んで又同じことを云ったら又ビールを持ってきて参った経験がある。まことに発音とは厄介なものである。

今住んでいるサンシャイン・コーストのペンダーハーバーは自然豊かな漁山村。
西海岸有数のリゾート地と云う人もいれば「文化果つるところ」と云う人もいる。
そんな八キロ四方の森のような土地でも年に一度の花火大会がある。十月末のハロウィーンの晩である。
当地に移り住んだ翌年、港で催されると云うその花火を見に行こうと思い車を走らせたものの、リアス式の海岸だから大小の港が無数にある。

花火大会の場所を聴こうと思って、夕暮れの人通りの少ない道端でブラブラしている人のそばに車を止めてその人のところへ歩いてゆき、場所を聴いた。
はじめニコニコして私の方へ歩いてきた、みるからに素朴な赤ら顔のオジサンが、私が第一声を発した時、急に表情を変えた。そして私の頭のテッペンから足許までを、まるで怪しい者でも見るような顔で観察しながら後ずさりする。どうしたんだろうと思った私は質問の第二弾を放った。

どうも質問の意味が解らないらしい。さして難しいことを聴いている訳でもないのに…と不満だったが、アトで考えてみれば私の英語の発音がまるで話しにならなかったらしい。
おじさんは鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、自分の家とおぼしき方向に後ずさりを続けた。そして後を向いて、こう叫んだ。
『誰か助けてくれ!!』
たしかにそう云った。私だってその位の言葉は解る。誰も取って喰おうと云ってる訳ではない。少し私の英語の発音が前衛的なだけではないか…。

OKとサンキュウだけで
年も暮れ


2012年12月19日号(#51)にて掲載

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