もう、とっくの昔に亡くなった父が床屋から家に帰り、憮然たる面持ちで、しばらく文句を云っていた事があった。
「人の目が、どこについてると思ってるんだ、あの床屋のオヤジは!」
大した問題ではない。男は床屋で散髪のあと、洗面所に連れていかれ、洗面器に顔を突っこむようにして頭を洗われる。
そのあと頭を洗ってくれた床屋が、タオルで先づ目を拭ってくれる。そしてイスに戻されて髪を入念にかわかす。だから濡れた目を先づ拭いてもらわないと客はイスまで戻れないのである。

しかし父は晩年、髪の毛が後退しつづけて、どこまでがオデコで、どこからが頭なのか判断しづらくなっていた。
床屋が洗髪したあと「目はこの辺だろう」と思って先づタオルで拭いたところは実は父のオデコだったのである。

床屋、散髪屋、美容院、呼び名はいろいろ変っても床屋は昔から庶民が街の情報を仕入れたり、リラックスできるオアシスのような存在で、古今東西いづれも、そのたゝずまいや風情が似ているのが不思議である。

関東で生まれ育った私が二十代の最後の三年間程を関西で暮らしたことがあった。
会社づとめの転勤生活で、若かった当時の私にとって心細い三年間だった。
しかし知らない土地とは云え、床屋に行ってイスに座ると不思議に気持ちが落ち着いた。その原因は、どこの床屋も店内に似たような床屋独特の香りが漂っていたことに加え、やはり人情を感じる土地の会話があったからだと思う。

見ず知らずの土地での三年間は世間知らずの若造にとって緊張の連続だった筈なのにそんな、くじけそうな気持を支えてくれたのは行きつけの床屋で知り合った見ず知らずの人達だった。
人の世の情を教えて頂いた。

そうは云っても馴染んだ土地に戻りたい気持は簡単には変らない。友人も多い。
でも会社もおいそれと転勤の希望を叶えてくれないので会社を辞めて、やむなくスタジオを東京に持って独り立ちすることになってしまった。嫌も応もない独立で、やっぱり心細いことに変りはなかったけれど、今度は世間知らずの若さがその心細さを支えてくれた。

東京都下の小金井市に住んだ。その後、神奈川県、東京都内と移り住んで今はカナダに来てしまったけれど、その都度、引っ越す理由はいろいろあるものだと思う。
小金井市に住んで間もなく家の近くにある床屋へ行った。何はともあれ、気持を落着けて静かに散髪をしながら、瞑想し、今後の計画を立てようと思った。

多摩霊園に近いその床屋は老舗で、もう四十年もこの土地でこの仕事をしているそうだ。店主は七十代の髪の毛の殆どない穏やかな人でお客は私一人だった。
イスに座って目を閉じる。春たけなわで、桑畑も近くにあり、揚げヒバリの声がのどかにきこえてくる。

関東に戻って、関東の言葉で店主と世間話をしている内に私は安心感のようなものに包まれて眠くなってしまった。
眠りに落ちる前に店主に「おまかせします…」と云ったような気がするものの定かではない。髪形についてである。つまりその位眠かったのである。
イイ気持で十分も寝たころ「どうでしょうかネエ、こんなもんで…」と云う店主の声に目が覚めた。
寝ぼろけマナコで鏡の中の己の顔を見たが、寝ていたので急には焦点が合わない。
次第に鮮明になってきた鏡の中の自分を見て私は「アッ」と云った。
何のことはない東北のコケシのテルテル坊主がイスに座っているのかと思った。

私はもう何も云えず呆然。店主は自信たっぷりの様子で「これは今流行りの髪形で…」と云いニコニコ笑っている。
おまかせします…と云って眠ってしまったことを後悔したが、もう後の祭りだった。はっきり云えば、お河童頭である。一番近い印象を云えば黒い大きなお椀をかむったような髪形である。
本当にその髪形がその当時流行していたのかどうか今でもよくわからない

唯一つ心当りがあるのは当時、全盛だったビートルズのメンバーがこんな髪形をしていたような気がする。
もしそうだとすれば七十代のこの店主の新しい髪形に対する挑戦だったのかも知れない。
いづれにしても終ったことは仕方がない。憂鬱な顔で家に帰ったら家人が「あゝら可愛い…サザエさんちのタラちゃんみたい!!」とほざいた。
それ以来床屋が信じられなくなった私は床屋に行かない人間になり自分の髪は自分でカットしてウン十年になる。


2012年11月15日号(#46)にて掲載

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