東京、銀座の恒例の″光のパレード″は今も多分銀座の名物であり夏の終りを惜しむ行事として続いていると思う。
確か七十年代後半にスタートした数々の光のフロートによるこの祭りは、銀座に本拠地を持つ企業をはじめ、日本を代表する企業の華やかな一大ページェントで、当時立体デザインで四苦八苦していた私も、某化粧品メーカーの電飾フロートを担当し、銀座の祭りを楽しませて頂いた。

この頃より更に十七、八年前、確か厚生省の主催による「社会を明るくする運動」と云う催しがあった。
その中心になるのは、やはり都内を練り歩く巨大なフロート八台ものパレードだった。
当時、広告代理店の制作部門に席を置いていた私は、毎年夏になると、会社が受注するこのフロートのデコレーションに狩り出された。

その催しの期間中、チャーターされた大きな観光バス八台が、ある日東銀座の会社の前にズラリと勢揃いする。
そのバスのボディーに制作部の大工さんによってバスを包み込むように巨大なパネルが取り付けられる。
一週間ものパレードの運行に耐えなければならないから取付も簡単ではない。

車窓には立体的な大きな子供の顔が取り付けられ、あたかも大勢の子供達が乗っているバスのようだ。

そして普段は社内でデザイン作業に追われていた我々はこの時ばかりは、屋外でのペイント作業に追いまくられることになる。
このイベントに協賛する日本のメーカーのパネルは、繊細な表現が必要だから、事前に制作されてパレード車にとりつけられる。
しかし、この催しのスローガンや「社会を明るくする運動」そのものの文字、キャッチフレーズ等は、パレード車に取り付けられた巨大パネルに直接ペイントしなくてはならない。レタリングを完全にマスターしたデザイナーの腕の見せどころだった。

炎天下で一週間も続くこの作業は大変だった。六、七人のデザイナーが半裸でパレード車に描く文字は、一文字八十センチ四方もある大きな文字で、東銀座の街中だから人だかりが凄い。
見物客から「どうすれば、こう云うレタリングを…?」等と質問が飛ぶものの応対している暇が無いので失礼ながら無視。
デコレーションの最終日はパレード前夜の午前一時頃ようやく全ての装飾が完了する。

翌朝はNHKの歌のおばさんとして親しまれた、歌手の松田トシさんをはじめ、今をときめく芸能人達が先導の宣伝カーの後部テラスで手を振り沿道の人々に青少年犯罪の防止を訴えるキャンペーンが始まる。

さてデコレーション最終日は、もう体力を使い果たし、絵の具にまみれて、ぶっ倒れてしまう。装飾車の中で差し入れの酒など飲んで八台もあるバスのどこで寝ようと勝手なのだが、車内灯をつけ一升瓶の冷や酒を飲み、屋台で買ってきたおでんなど食べていると、又元気が出てくる。

スタッフは殆ど二十代から三十代で若かった。
そのまゝバスの広い座席に転がって寝ればいゝのに、十数人のスタッフが、仕事が全て完成した打上げ気分で空いている居酒屋を探す。しかしもう、そんな店もなくて、一升瓶の酒を廻し飲みしながら、東銀座、銀座通り、西銀座と深夜の街を歌を唄って歩いた。

さすがに歩いている人もいない時間だったが、たまにいつも見かける乞食などがいると、みんなしゃがみ込んで一升瓶の酒を汲み交してしゃべったりする。

あれは確か有楽町駅に付随した交番だったと思う。
全て仕事を完成させた開放感と人恋しさで、酔いどれ達はその交番の中にまで入り込んだ。
勤務中の若いお巡りさんはビックリしたが、年代も近く「社会を明るくする運動」の装飾スタッフだと知ったら、「そうですか、ご苦労さんです」と云って敬礼してくれた。皆うれしくなって敬礼を返した。

誰かが厚かましくも「酒はあるんですが、おかずが無いんです…」と云ったら、そのお巡りさんが裏の方をガサガサ探してタクアンを皿に盛って渡してくれた。
考えてみれば呑気な時代だった。
歩き疲れて東銀座のその晩の寝ぐらであるバスに向う途中、銀座松屋の前にあったスタンド型の鉄製クズカゴに誰かが火をつけた。今だから云える話である。
酔いどれ達は誰も歩いていない銀座通りの真ン中で、その火が消えるまで何やら歌を唄いながら炎を中心に踊った記憶がある。今なら、すぐパトカーに御用だ。九ちゃんの「上を向いて歩こう」が大ヒットした頃である。まだ良い時代だったような気がする。


2012年10月18日号(#42)にて掲載

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