六十年代のはじめ頃、東京東銀座にあった老舗の広告代理店につとめて汗みどろになって奮闘していた。
社会に出たばかりで右も左もわからないポッと出の自分だったが所属した制作部には奇人が多くて、毎日が楽しく新鮮な仕事場だった。

大体デザイナーとかイラストレイターと云う職種は誕生して間もない仕事だったし、作品さえクライアントに認められれば…と云うワガママな人が多かった。
私の隣りに席があった浜口(仮名)氏はレタリングと称する文字をデザインする感覚がすばらしく右に出る者はいなかった。 
私は今迄これ程変った人を見たことがない。その頃あった成人学校で美術を学んだ彼は席に座ったら最後、一日中無言。寡黙の人だった。
何か話しかけても「ウッ」位しか声を発さない。何か世間の雑事に耳をふさいでいるような風情があった。

営業さんが仕事を依頼にきても返事をしない。相手にとっては不安なこと夥しい。でも無言で完成させた作品は完成度が高く、一発でクライアントのOKが出る。
彼が動く時は昼メシ時だけなのだ。必ず決まった日本そば屋にゆく。せめて蕎麦を注文する時ぐらいは何か云う筈だ…と誰かが浜口氏のあとを尾行して蕎麦屋に入ったが黙って座っただけで「ヘイお待ちどうさん!」とザルソバが出てきた。毎日ザルソバなので蕎麦屋も心得ていた。

当時、始まって間もないテレビ放送の「春夏秋冬」と云う番組があって当社がプロデュースしていた。人気番組だった放談形式の構成でレギュラー出演する声優の徳川夢声さん、神学者の渡辺紳一郎さん、大学教授の奥野信太郎さん、それに詩人のサトウハチローさんといった面々が、番組の打合わせの為かいつも社に出入りしておられた。

本来ラ・テ課と称するラジオやTV媒体を扱うセクションに用がある方々が用事が終ると、ブラブラと私が絵の具だらけになって仕事をしている制作部などに、ひやかしに来られる。
その頃この広告代理店の出版部からサトウハチローさんの詩集「おかあさん」が出版された。あのヒゲ面のハチローさんが書く詩とは思えないような母親を慕う子供の目線で綴られた詩に私も目をうるませた記憶がある。ファンだった。

そのハチローさんが「ガハハハ…」等と大口あいて笑いながら、ある時私の席まで来られて「どうだい、やってるかい!」等と云われる。社会に出たばかりの若造が返事に詰まってドギマギしていると、俺は腹が減ってるんだヨ、ひとつくれよな……等と云って私が食べていた昼食のサンドイッチなど食べてしまう。そんなザックバランで気さくな方だった。

ある時出版部の女子社員が文京区のハチローさんのお宅に本の原稿を受けとりに行った。夏の暑い盛りだった。
FAXもパソコンも無い時代である。
玄関を入ったその女子社員が声をかけたら、ハチローさんが出てこられた。
「ヨウ、来たかい。上んなヨ」
そう云ってくださったハチローさんを見ると、上はシャツを着ているものの、下はスッポンポンだった。

女子社員はビックリして社に舞い戻った。男の社員があわてて原稿を受けとりに行ったらしい。
同じ社員の中にハチローさんの息子の佐藤四朗さんがおられた。確か出版か電波媒体の仕事をされていたと記憶している。 
ある時四朗さんに聞いてみた。「四朗さんはハチローさんの四男坊なの?」
「イヤみんなそう云うんだけど実はオヤジが、せめて俺の半分位の人間になれと云ってつけた名前なんだって…」と云ってちょっと困ったような顔をしていた。四朗さんはハチローさんにソックリだった。

サトウハチローさんは本名佐藤八郎、東京の生まれで作家佐藤紅緑の長男。
少年の頃から放浪がちで早稲田、立教など八つの中学を転々とされたそうだ。
西条八十に師事し詩集『爪色(つめいろ)の雨』(一九二六)で世に出た。
ユーモア小説・軽演劇・流行歌そしてスポーツ評論とその活躍は多彩だった。
叙情詩集『いとしき泣きぼくろ』『雨のオリエンタル』『てんと虫』そして童謡集『叱られ坊主』『木のぼり小僧』『タムタムナムナム』などいづれも楽しい中にも人の心の奥底に眠っている懐かしさや人間の心の原点をゆりうごかすような優しさを持った作品が多かった。
私がハチローさんにお会いした時は多分、晩年の詩集『おかあさん』(一九六一〜六三)に没頭されていた頃である。
その作品には何のけれん味もなく無垢な少年のように、ひたすら母親への慕情が脈々と流れてハチローさんのお人柄が今も忍ばれる。(七三年没)

 

2012年5月24日号(#21)にて掲載

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