広告会社の制作部門にもぐり込んで、仕事に明け暮れていた、二十代のはじめ頃。
池田内閣の所得倍増論が華やかに打ち上げられ、日本の経済が音をたてゝ動いていた。

待望のオリンピックが昭和三十九年に東京で開催されることになって街には明らかに上向きの気運が立ちこめている。
オリンピックを迎える為にデパートやホテルが次々と拡張工事をはじめる。
漫画アニメ「鉄腕アトム」もTVでスタートしたし、堀江謙一さんが、わずか六メートルのヨットで太平洋を横断し、世界をアッと云わせたのもこの頃である。

云ってみれば日本国中が漠然としてはいるものの、何か未来に明るい希望を持っていた時代だった。
そんな時代はマス・コミの広告活動も活発で私が勤務した広告代理店も激しい程の成長で、TV・ラジオの媒体や主に私がかかわったデザインの需要はうなぎ登りだった。

広告会社のデザイン部門と云うのは、前の晩も遅くまで仕事をしたりする関係で、出勤時間などあってないようなもので、九時と云う決まりはあっても、先づ皆出てこない。大体九時半から十時、遅い人は11時頃になって小さい声で「おはようございます…」などと呟やきながら現われる。

私も遅刻の常習犯だった。しかし時間の中で機械のようにできる仕事ではないことを会社は理解してくれていたのか叱られた記憶はない。
その替り夕方頃からエンジンがかかり退社時間も九時、十時はザラで勤務時間は結局同じこと。まして通勤に一時間四十分もかかる東京の隣接県に住んでいたので、たびたび家に帰れなくなった。

制作部にイスを並べて朝まで寝てしまうこともあったし会社帰りに居酒屋で息抜きをしている間に電車もなくなり社に戻ってみれば入口の扉も締っていて、やむなく会社に近い銀座通り二丁目の電話ボックスの中に転がって朝まで熟睡したこともあった。
世の中の景気が上向いていると云っても所詮、安月給の若造だから、そうそうホテルには泊れない。

ある時、仕事帰りに同僚と飲んで青臭いデサイン論などをしゃべっていたら、又遅くなって家まで帰る目算がたゝなくなった。お金もなくなりサテと思案の結果、山手線に乗って同じ環状線の新宿駅のとなりの新大久保駅で降りた。誰かに聞いていた安い木賃宿を探そうと思った。

もうろうとした頭で駅近くの店も締った裏路地を歩いていたら、門灯も消されたそれらしき宿が見つかり転がり込んだ。
確か一宿百五十円だった様な記憶がある。ラーメンが三十円か四十円の時代である。
宿とは名ばかりで木造家屋のいくつかある六畳間の両サイドに寝台列車のように二段づつ蚕棚のようなベッドがあって一部屋四人。上段の客はハシゴで上に登る。暗い裸電球が一つぶら下がっていた。

三人の先客は既に熟睡しているらしくイビキがスゴイ。持物は特に気をつけろ…と云う宿のオッサンの言葉だった。ぬいだ靴を持って上段に上りハンカチで靴をくるんで、それを枕にした。枕もなくてあるのは薄い毛布とセンベイ布団一枚。どう考えてもこれ以上簡素化できない設備だ。

イビキは益々うるさくなりこれは早く寝た方が勝ちだと思った。勿論、衣類は安全のために着たまゝだった。
少しウトウトしたように思った頃、首、足、背中の順に体が痒くなった。しばらく我慢したが、その内耐えられなくなった。シャツをまくって見たらお腹に点々と一直線の刺された跡がある。この吸い口はまさしくダニだと思った。

このあとはもう朝まで寝られない。たゞひたすらボリボリ身体を掻いて明るくなるのを待つしかなかった。
朝六時になったら、下の方でチーンと鈴の音がして、同時にかすかに線香の香りがただよってきた。

アレッと思って下段のベッドを覗いてみたら一畳もない寝床の頭の所に小さな仏壇がしつらえてあり、位牌が置かれてあった。年輩の客が手を合わせて小声でお経を呟いている。不思議な光景だった。
どう云う事情があるのか知る由もなかったが、この木賃宿に長逗留している客らしかった。
世の中は所得倍増論だのオリンピック景気で盛り上がりつゝあった時代である。
社会に出たばかりで世間のこともロクに知らない若造にとっては、暗くて狭くて、その上かゆいこの木賃宿に世の中の路地裏の一隅を教えられたように思えてならなかった。
それから四十数年を経て日本を訪れた際、新大久保駅の周辺を歩きあの木賃宿を探したが宿のあった辺りは白い大きなビルがあるだけだった。

 

2012年4月12日号(#15)にて掲載

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