小学校低学年、雨の降る寒い日。ランドセルを背に家に帰り、雨戸を自分で開けて狭い庭に目をやったら、荒縄につながれた小犬が雨にぬれて寒そうにふるえていた。
家族は皆でかけ誰もいない。これが以後十六年間、一緒に暮らすことになった飼犬との出会いだった。

人に頼んでいた小犬を貰う話が現実になった一瞬である。近隣の人が留守中に約束の犬を庭につないで行ったらしい。
終戦後の、殺伐とした時代だったから八才の少年にとっては飛び上るほどの嬉しさだったことを憶えている。

寒さにふるえている小犬を私は急いで敷いた布団の中で抱きかかえて温めた。体が震える程嬉しかったのは何より家で一緒に暮らせる友達ができたことに対する感動だったのだろう。

当時、犬の名前は圧倒的にポチとかシロが多かったが、この犬には何故かベルと云う名がつけられた。足の短い犬でダックスフンドの血が入った茶色と白の毛並だった。
今のようにドッグ・フードなど無い時代。彼は人間が食べる物なら何でも食べた。ご飯に味噌汁をかけただけでも食べたけれど、やっぱりミルクや肉類は事の外よろこんだ。そして見る見る大きく育った。特に手足は太くたくましくなった。

庭のあちこちに穴を掘るのが特技で、これはダックスフンドが元々兎狩りに使われ兎が逃げ込んだ穴を掘り起こすのが得意だったそうだから、うなづける。
はじめに学校から帰った私と出会ったためか私との仲は兄弟のようだった。
終戦の翌年、戦地から戻った父親は今思えば私と極めて性格が似ていたのに、事、動物にはあまり関心のない人で、足でベルの背中など撫でたりするので腹が立った。

成犬となったベルが私から離れようとせず、どこへ行くにもついてくる。うれしいけれど、これも時によりけりで往生した。
長じて私が会社づとめをしてからもベルの追っかけは続いた。私が靴を履いて出勤しようとすると、もう彼が路地の出口の方で「行くんだろう」と云う顔をして待っている。その頃は放し飼いだった。

バス停で先廻りして待っている彼が私と一緒にバスに乗り込もうとする。運転手が時間が遅れると云って、毎朝ひともめする。「帰れ!!」と私が怒鳴るとスゴスゴ帰ってゆく。帰りしなに腹イセに走るバイクなど吠えながら追いかけて苦情を云われたりもした。

仕方がないので毎朝私が出かける少し前に、先づ彼を捕まえて鎖につなぐことにした。近所のおばさん達も彼の好物の煎餅など持って、この捕物を手伝ってくれるものの奴は鎖に繋がれるのが解っているから簡単には捕まらない。おばさんの持つ煎餅だけかすめ取って足許をすり抜ける。
ある秋の夜更け私が務め帰りの駅を降りた時、月明りの駅前広場に彼がいた。家から歩けば四十分もかかる場所だから意外だった。
真夜中にこんな遠くまで彼が遠出しているとは知らなかった。異性を求めての遠征だったのかも知れない。

「オイ!」と声をかけたのが私だと解った彼は一瞬ののち私に飛びついた。殆んど錯乱としか表現できなかった。
なんだ、こんな所から毎日帰ってくるのか!!人間だったら多分彼はそう云った筈だ。組んずほぐれつ一人と一匹が月の夜道をたどった忘れられない想い出である。

犬の寿命はおよそ十五年と聴いていた。
家に来てから丁度十五年経った頃から彼は縁側に寝そべって、ウツラウツラする事が多くなった。医者に見せたら寿命に加えてフィラリア症だと云う。背中の毛が大分抜けて辛そうだった。
十六年前に初めて彼を布団の中で温めたような雨の日。狭い庭を見る廊下で彼はほとんど動かなくなった。

いつも母親に廊下に上がっては泥足で汚れる…と叱られていた彼の好きな廊下だった。私はその日会社を欠勤した。辛い予感でメシも食べられなかった。
私の膝まくらで眠る彼に「どこか痛いか…」と声をかけながら、当てずっぽうに彼の体をさすった。
「これからズッと廊下にいていゝからな…」全く反応のない昏睡状態だった。

小声で詫びた。あまり遊んでやれなかったな…ごめん。その時、眠ったまゝだった彼の目がかすかに開き又閉じた。私にはそれが「イイんだヨ、そんなこと…」と彼が云ったように思えた。泪がとめどなく彼のやせた体に落ちた。大きな深呼吸を一つ。それが彼との別れとなった。それ以来、私は再び犬を飼えなくなった。

 

2012年3月1日号(#9)にて掲載

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