おこもさん、乞食、浮浪者今は路上生活者。呼び名は替ってもいづれも同じ意味あいの自由生活者である。
それぞれ事情があっての今であろうし、人がとやかく云える筋合いのものではない。

今はどうか知らないけれどあの繁華街、東京の銀座にも何人かの筋金入りの乞食がいた。私の仕事場も近かったから、年中顔を合わせればこそ、そこはかとない親しみも覚えた。大分、昔のことである。

サンパウロと呼ばれていたその御人は銀座通りから昭和通りにかけての一帯が行動範囲。自分の家財を全部引きずるように身につけていた。
衣類は夏でも冬でも全部着てしまうからダルマのよう。
毛布、ヤカン、傘、食器も振り分け荷物のように肩にかけている。かなりの重量だから移動するのも決して急がず、悠然と黒光りした顔に太陽の光をあびて歩いてゆく。

時々彼が一休みしながら呟いている声が耳に入る。
「俺がサンパウロにいた頃はなあ、あとからあとから女が寄って来て……」年は六十代。
本当か嘘か知らないけれど彼の全盛期の話として素直に受けとった。

銀座四丁目から東銀座にかけて今も地下鉄の長い連絡通路がある。その通路はかなり広くて東へ向かう人と西へ向かう人の流れが通路中央の一段高い分離帯をはさんで行き交っている。大変な通行量である。
この分離帯は巾が一メートルもあって以前は天井を支える太い丸柱が一定の間隔で立っているだけだった。
だから自由生活者にとって格好の安住の場所だった。
屋根はあるし風も吹き込まない。時によっては、あくせくと行き交うサラリーマンを気にもとめず、二、三人の年期の入った彼等がこの分離帯の上に段ボールや毛布を敷いて昼間から酒盛りをしていた。

何しろ名だたる繁華街がテリトリーだから酒のツマミには事欠かない。朝起きてレストランの名店の裏口を何軒か廻れば、前夜の客が食べ残したフランス料理、イタリア料理、和食、更には中華料理と世界中の料理が揃う。

飲み物はビール瓶に飲み残しのビールを集めれば、たちどころに五、六本の瓶が一杯になる。ある時、その彼等の安住の分離帯に異変が起きた。
その場所の管理者によって分離帯の上に人が横になれない程度の間隔で一種風雅な形をした自然石が置かれたのである。勿論、動かせないように基部は固められている。

これには流石の彼等も酒盛りが出来なくなった。
一人一人が石と石の間に挟まって居を構えることになり、これでは仲間と情報を交換したり世間話もできない。
まして以前は、分離帯の上にダンボールやどこからか手に入れたビニール等を敷き酒盛りのあとグッスリ安眠できたのに、置かれた石が邪魔で横になれなくなった。
鰻なら身をくねらせて石をよければなんとか寝られるだろうが、人はそうはゆかない。完全に管理者の智恵勝ちで、いつの間にか彼等を見かけなくなった。チョッピリ気の毒な気がしたのは否めない。

一方であり余る程の財産に恵まれて能々と暮らす人がいれば片方では地を這うようなくらしを好むと好まざるとにかゝわらず受け入れなければならない人がいる。上を見ても下を見ても切りがない。
江戸の終り幕末の頃も世の中がすさんで仕官先もなくなった武士が落ちぶれて喰うや喰わずの浪人生活を強いられたり、憂さ晴らしの辻強盗に身をやつしたりしたそうだ。傘貼り浪人などまだマシな方だったらしい。

講談などに出てくる乞食のネグラは橋の下とか袂である。月が冴え渡る寒い夜、乞食が菰にくるまって寝ていると浪人に身をやつした武士が忍んできて錆びた刀の切れ味を試す為と己のイラだちをまぎらわす為に寝ている乞食を切る。一太刀あびせた浪人は刀をかついで一目散に逃げてゆく。しかし腕も鈍り手入れを怠った刀だから、うまく切れない。

乞食がいつも嘆いていたそうだ。俺がイイ気持ちで寝ていると毎晩のように棒で叩いて逃げてく奴がいる。今度来たらトッツカマエて意見する。
そこまで切れなくなると刀も唯の金棒である。
乞食の子供が云ったそうだ。「チャン!うちは家もないから掃除もしなくていいし、橋の下だから火事もないし、目の前で魚も釣れる。オッカアも川の水でせんたくできるからイイネ!」
「よくわかったな坊…それもこれもみんな親のおかげだ…」

乞食は三日やったらやめられないと云う。それは何よりも自由があるから。いつの時代にも共通して云えるのは、のびのびとして人に指図されない事。人の世の栄枯盛衰を甘んじて受け入れる度量である。

 

2012年2月16日号(#7)にて掲載

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