時代が進んで世の中が次第に便利になる。便利になるにつれて複雑さが増してくる。情報量も多くなり、それに豊かさも加わってくると人々の価値観も変わってきて、日本に古くから伝わってきた習慣も影がうすくなってくる。
それは都会もしくは都会に近いほどその傾向が強くて合理的ではあるけれども、その反面情緒性が消えてゆく。

例えばお正月。娯楽も少なかった昔はどこの家庭でも素朴で共通した楽しみ方があったが今はカルタとりや羽根つきなどほとんどしなくなった。子供も独楽まわしなどしない。

子供たちにしてみてもTVの前に座ってゲーム機を操作してピコピコやっている方がよほど話が早くて面白いらしいが「個」の楽しみである。
青年たちは集まってワァワァ騒ぎながら酒を飲むことはあっても正月らしい情緒性のある遊び事はもう知らないしもっと今向きの楽しみ方があるのだろう。
どこの国もそう云う傾向にある現代だろうと思うものの「……ならでは」と云う個性的で伝統的なものが次第に遠いものになってゆくのは寂しい。

十代のはじめ頃のあるお正月。生家の縁側に座って狭い庭に置かれた七輪の上の大きな釜の見張りをさせられていた。どこかで借りてきた大釜のフタを開けるとアズキがコトコト音を立てて煮えている。
一月三日、この日は生家の二階でカルタ会。九ツ違いの兄の友達が集まるらしい。

 

私はと云えば階下の庭でお汁粉用のアズキがこげないように大きなシャモジで時々釜の底をかき廻す役廻りだ。
三々五々、兄の友人たちが集まってくる。
アッと目がさめるような晴着姿のお姉さんがいるかと思えば難しい顔の羽織を着たお兄さんもいる。「功坊!」などと云って私の頭をなでて二階に上がってゆく。

 

ひとしきり、二階が賑やかになり笑い声で騒がしかったがしばらくしたら急にシーンと静かになった。百人一首の始まりらしい。

 

ひさかたのひかりのどけき
はるのひに
しづこころなく 
はなのちるらん

 

母親らしい詠み手の声が終らない内に札を取る手が畳をたゝくドスンと云う音が下まできこえてくる。
いい年をして普段おっかない顔をしている父親まで若い娘さんの晴着姿につられて二階に上がり奮戦中である。

 

今になって調べて見ると昭和二十年代の中頃と云えば日本は第三次吉田内閣が成立した頃で戦後の社会も混沌としていたもののロスアンゼルスの全米水上選手権大会で古橋広之進が自由形に世界新記録を出し、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれたり、日本にビヤホールが復活した時代である。

 

藤山一郎、奈良光枝が唄う「青い山脈」や高峰秀子の「銀座カンカン娘」が大ヒットした頃で次第に日本が元気になってくる勢いを感じるものの一方で戦争で傷ついた日本を象徴するような歌謡曲「長崎の鐘」もこの頃のヒットだった。
決して豊かではないけれどようやく訪れた平和は庶民の生活に少しずつ心の余裕を与えてくれたのだろう。
何年か前までは百人一首どころのさわぎではなかったろうし、お汁粉をつくりたくとも満足に砂糖も手に入らなかった筈だから…。
イガグリ頭の汁粉係は犬の頭など撫でながら黙々と大きなシャモジで小豆がこげつかないように釜の底をかきまぜる。

 

二階のカルタ会は時間が経つにつれて盛り上り、その熱気が天井を透って下まで伝わってくるようだった。
ラジオしか無かった時代である。正月と云えば今はTVで、どのチャンネルでも同じような趣向のクイズ番組や若いタレント総動員のめまぐるしいお笑い番組ばかりだけれど、その頃は決ってラジオで箏曲「春の海」などが流れていたのを思い出す。

 

狭い路地の奥で隣に住んでいた同年代の姉妹が羽根をついていたりする、そんな変哲もない静か過ぎるほど静かな古い町のお正月。
でも新しい年の清々しさは今この年になって感じる新年とはまるで違う何かがあったような気がする。あれは一体何だったんだろうと思うばかりである。

 

大したお年玉を貰った記憶もなく、考えてみれば二階から聴こえてくるカルタ会の楽しそうな嬌声など聞きながら自分もよく黙ってお汁粉の釜などかきまわしていたものだと思う。
どうも次男坊は気は楽だが何かにつけて分が悪い。大体、死んでから親の墓にも入れないと云う事もズッと後になって知った。
話が変な方へきてしまった。

 

2012年1月1日号(#1)にて掲載

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