トレードマークの黄色いつなぎを着た木村さんは、高さ5メートル幅4メートルほどの、白い壁に向かっていた。手には、竹の棒。棒の先には青いチョークが入っている。少し考えた後、棒を振りかざすと、ためらうことなく壁一面に棒を走らせた。指揮者が指揮棒を振るような、リズミカルな動きだ。数分のうちに、壁一面に、風に舞うメイプルリーフが浮かび上がった。その場でデザインし、描きあげるライブアート。それが、キーヤンのスタイルだ

 

「こんなんですよー。どうですかー?」
振り返るとうって変わって、関西弁で気さくな人柄だ。
木村さんには、信頼するチームキーヤンのスタッフがいる。今回、バンクーバーでは5人の仲間と壁画を制作した。下絵を描くと、チームのスタッフに指示を出し、任せるところは任せる。
時には100人規模のスタッフが関わる大きな作品もある。木村さんの指揮の下、オーケストラの音楽のように、スタッフの筆が共鳴し壁画が完成する。

この日は、前日まで取りかかっていた、カナディアンサーモンを主題にした壁画に、タイトルを入れた。パーマネントレッド、ウルトラマリンを使い、体に色とりどりの水玉模様をまとった表情豊かな24匹の鮭が、高さ5メートルの壁面に描かれ、ラウンジを半周回遊する。鮭は、力強く、今まさに海から川を遡らんとする勢いと生命力にあふれている。

 

 

実は、木村さんが壁画家になったのは、還暦を迎える前の年だ。木村さんは1942年大阪府泉大津市生まれ。堺市の泉陽高校から、京都市立堀川高校に転校し、京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)の図案科に進んだ。在学中、オーストリアのウィーンから来日したリチ・リックス・上野教授に師事し、師の手がけた、東京にある日生劇場のレストラン「アクトレス」の壁画制作を手伝ったことが、後の壁画家、キーヤンの萌芽となった。

 

 

「絵が趣味という、コレクターに買ってもらう絵は描きたくなかった。フレームにはめられた絵が大嫌いだった僕に、彼女は、壁画の魅力を教えてくれた」

 

大学卒業後、木村さんは、創作の道に入らず、大学で講師をしていた。当時は、学生運動の盛んな時代で各大学でデモが相次いでいた。「美大生が右や左やゆうてどうするねん。政治運動を超えた、文化的な革命をしようやないか」木村さんは、京都会館で日本最初のロックフェスティバルを開催し、大成功を収めた。

 

大学講師兼興行師。その評判が海外に届き、「ウッドストックを富士の裾野でやろう」という、「富士オデッセイ」の日本プロデューサーに指名される。結局そのイベントは、幻に終わったが、それを機に世界ロック探訪の旅に出た。
オランダでは「パラディソ」、ニューヨークでは「フィルモアイースト」を訪ねた。新しいものを作ろうという息吹があった。それらを吸収したあと、日本に戻った。そして1971年、京大西部講堂で、ロックムーブメント「モジョウェスト」を開催。破壊行動の無意味さを目の当たりにし、新しい表現方法への模索をしていた学生達から、強い支持を受けた。70〜80年代は、広告やポスターのデザインなど、様々なイベントの仕掛人として、バブル期を謳歌する。

 

 

ところが木村さんは、還暦を前に、ふと自分の仕事に疑問を感じ始めた。そんな時、木村さんの旧知の友人から、レストランの壁画を描かないか、という誘いがあった。しばらく絵筆をとっていないという不安もあったが、「成り行き任せや!」。描きたい、という気持ちの方が強かった。  その店に流れる、ジミー・ヘンドリックスのロックにあう、サイケデリックな絵を描こうと、ピンクの絵の具を用意した。
だが、壁画制作当日、壁の前に立った木村さんは、違和感を感じた。そのレストランの天井には、ヨーロッパの古い民家にあるような、黒々と光る梁があったのだ。木村さんは、事前に用意していたピンクではなく、ワインレッドを選んだ。金で縁取った、ユーモラスな「サイのファミリー」(2001年)。梁の趣が壁画と調和し、重厚感が増した。これが大成功。その絵は、評判となり、木村さんの作風を作り上げるきっかけとなった。

 

 

2005年、木村さんは、京都五か室門跡の一つ、青蓮院門跡、華頂院の襖絵60面という大作に挑んだ。伝統の寺院での創作にあたり、木村さんは門主に、岩絵具など日本画の画材だけではなく、アクリルガッシュなどを使うことを伝えた。その時、「俵屋宗達でも、今だったら、アクリルを使いますよ!」と言い切ると、門主はにっこり微笑んだという。

 

木村さんは、 空想の事物は描かず、目で見た物しか描かない。動物や植物など、生命力溢れる題材を使う。木村さんが、「成り行き任せ」とうそぶく、即興で制作される作品は、実は、周到な自然観察に裏打ちされている。
木村さんは、京都で学生時代を過ごし、日本の伝統美術に囲まれてきた。四季を感じ、自然研究するなかで、写実に終わるのではなく、ものの本質に迫っていく、日本の美を学んだ。学生の時には古い体質に反発し、性急に新しいものを作り出そうと躍起になっていた。還暦を迎えて、肩肘張らずに、創作ができるようになったという。

 

 

今回壁画を創作したMikuのオーナー中村正剛さんとも、「伝統の中での革新」など、意気投合したことが、バンクーバーで壁画を制作するきっかけとなった。 「若い頃は、アメリカで見た、格好いいコンテンポラリーアートが描きたかったが、負けたらいかん、と邪心が強かった。『意識せずに、自分がやれることをやればいいんだ』と気づいたら、肩の力が抜けたんだよ」と話す。

 

木村さんの壁画は、まさにポップカルチャー(大衆の文化)だ。彼の壁画の前に日々、様々な人が訪れ、通り過ぎる。Mikuの現場では、カナダ人の改装スタッフが作業の手をとめて、木村さんの壁画に見入っていた。「僕がいるのを知らないで、若い女の子がこの絵かっこえぇなぁと、言ってたんですよ」と喜ぶ。街角で人の気持ちに寄り添い、作品として成熟していく、それがキーヤンの壁画だ。
(取材 大倉野昌子)

 

 

木村英輝(きむら ひでき)プロフィール

1942年大阪府出身の壁画家。京都市立美術大学(現:京都市立芸術大学)卒業後、同校非常勤講師。ロックイベントプロデューサー、デザイナーとして活躍。 1984年国際伝統工芸博、1994年建都1200年広場をプロデュース。2001年還暦を目前に、壁画家として再出発。京都市内各所のレストランなどの壁画を手がけ、2年目には、天台宗青蓮寺門跡襖絵の大作に挑む。2006年サミット京都誘致大懸垂幕、2007年京都市動物園、2009年関西国際空港での創作。2012年観光庁「Japan Thank You.」キャンペーン、TBSテレビNEWS23Xのセット、今年1月、日本橋高島屋80周年襖絵など多岐にわたる 。著書に画集「生きる儘 自然の成り行き 木村英輝画集」(淡交社、2006年)など。
木村英輝オフィシャルサイト http://www.ki-yan.com/
KI-YAN STUZIO http://www.ki-yan-stuzio.com/

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