2017年11月16日 第46号

日本からカナダに来るつもりだった。だが太平洋を渡ることはなかった。戦後、着いたのはオーストラリアだった。

 

ヨゼフ・カミエニエッキの身分証明書の裏。(マイケル・キャム提供) 左上:蘭領キュラソー島上陸ビザ。 左下:杉原千畝の手書きによる日本通過ビザ。 右下:敦賀港での「入国特許」スタンプ(楕円)と、官吏が書いた入国条件。 右上:満州国入国ビザ。 杉原ビザの右:関東州大連での通過スタンプ(四角) 満州国ビザの右下:満州国瓦房店での通過スタンプ(円形)

 

■招待状にあった写真  

 2015年6月、ポーランドのワルシャワで、杉原千畝を主題とする2日間の学会が開催された。主催者は、ポーランド、オーストラリア、英国の研究者グループで、在ポーランド日本大使館、同イスラエル大使館などが後援していた。ポーランドでは、第二次世界大戦中の杉原による同国系ユダヤ人の救済について、一般的には知られていない。1985年、イスラエル政府が杉原に「ヤド・バシェム賞」(諸国民の中の正義の人賞)を授与した30周年に、ポーランドでも杉原の功績に焦点をあてようという学会だった。

 送られてきた学会招待状に、杉原の手書きによる日本通過ビザの写真があった。この写真の提供者について主催者に問い合わせたところ、オーストラリア、シドニー工科大学のアンドルー・ヤクボビッチ社会学教授と分かった。

 

■逃亡の話

 ヤクボビッチ教授は小さい頃から、両親の戦中の逃亡談について聞いていた。

 1939年9月、ドイツ軍のポーランド侵攻で大戦が勃発し、その直後、ユダヤ系の両親ボレスロウ・ヤクボビッチとハリーナ、祖父母父ミハル・ウェイランドとエステラ、叔母マリアと叔父マルセル・ウェイランドの6人がポーランドのウッチからリトアニアのビリニュスに逃げたこと。翌40年8月、父と祖父がカウナスに行き、炎天下を日本領事館の外で不安げに並んでいるユダヤ系避難民たちの長い列に加わったこと。8月2日、二人が領事代理・杉原千畝から日本通過ビザを受給したこと。

 ヤクボビッチ教授が両親から聞いた逃亡談には、子供心にも忘れられないような光景があった。話はヨーロッパからアジアへと続く。

 1941年3月、6人は二枚の日本通過ビザで敦賀港から日本上陸。神戸滞在中、叔母マリアは、カナダに引受人がいたので、同国入国ビザを得た。そこで、まずマリアがカナダへ行き、その後あとの5人も日本からカナダへ渡るつもりだった。しかし、太平洋戦争の気配が忍び寄る7月下旬、日本郵船の北米線は全て運航休止。日本からカナダへの渡航は断たれた。

 8月、日本政府は国内に残っている避難民を上海に移動させる。

 9月、6人は避難民を上海に送る最後の船に乗せられ日本を後にした。マリアは、着いた上海からカナダへ向かうためオーストラリアに渡った。しかし、12月、真珠湾攻撃から太平洋戦争勃発。民間船はすでに運休。マリアはオーストラリアで足止めになった。

 一方、上海に残った5人のうち、祖父ミハルは42年、病死。あとの4人は、43年、日本軍が作った指定地域(ユダヤ人ゲットー)で戦中を過ごした。

 終戦後の1946年9月、マリアが保証人となり4人はオーストラリアに入国した。

 

■書類の重み

 マリアはその後、同じ杉原ビザ受給者で1947年1月にオーストラリアに来たヨゼフ・カミエニエッキと結婚した。

 ワルシャワでの学会の招待状にあった写真の杉原ビザは、ヤクボビッチ教授の叔母マリアの夫であるヨゼフが受給したものだった。同ビザが作成された書面全体を見ると、ヨゼフの足取りが分かる。 

 1940年7月30日、リトアニアのカウナスでオランダ名誉領事ヤン・ツバルテンダイクから受給した蘭領キュラソー島上陸ビザ。それを8月1日、杉原千畝に見せて得た日本通過ビザ。41年2月2日、敦賀港での日本入国スタンプと、官吏の手書きによる入国条件。満州国のハルビンへ行くため、5月13日、同国の駐日大使館で得た入国ビザ。ハルビンへの途上、5月29日、日本の旧租借地・関東州の大連(現・中国遼寧省の大連市)と満州国の瓦房店(がぼうてん、現・同省瓦房店市)で得た通過スタンプ。

 書類に作られたビザ、押されたスタンプ、日本語の手書き文。これらの背景にいる人々とヨゼフの命に思いを馳せると、一枚の書類が持つ意味は重い。

 

■オーストラリアとユダヤ系避難民  

 ヤクボビッチ教授は、「上海からシドニーに着いた私の両親、祖母、叔父の4人は、特に父は、警官から尾行されることになった」と語る。

 警察のレポートには、4人に対する猜疑心と、人種差別や外国人に対する嫌悪が潜んでいた。

 オーストラリアは、1973年まで白人優遇の人種主義的移民策を採っていた。その中でのユダヤ系移民に対する差別・偏見についてヤクボビッチ教授はこう解説する。

 「オーストラリアでの最初の『移民制限法』制定は1901年。アジア系をはじめとする有色人種の永住ならびに市民権取得を制限するものだった。

 ユダヤ系も好まれず、受け入れ数に制限があり、第二次世界大戦開始の前年には5000ほどだったのが、戦中は3000ほどに減った。上海から渡ってくるユダヤ人は密輸業者、詐欺師などの嫌疑をかけられた。移民申請にあたり、申請者がユダヤ系であるかどうかを保証人は明白にせねばならず、ユダヤ系の場合には受け入れ数の適用対象となった。

 戦後の1947年末までに、オーストラリア政府はユダヤ系移民の受け入れをさらに引き締めた。同時に、戦中に増加したアジア系避難民の排除に拍車をかけ、『白豪主義』の再強化を前面にヨーロッパ系移民の偏重が続いた」

 そのような社会構成の中で、ヤクボビッチ教授の父ボレスロウは、ポーランドでは会計士だったが、オーストラリアではレストランの給仕になった。ウッチの新聞社の要職にあった母ハリーナは、シドニーでは婦人服店で働き一家の生計を助けた。

 「私の両親はずっと以前に亡くなり、今は、戦中に10代だった叔父や、20代だった叔母が、多くの子・孫・曾孫に囲まれ一族の長になっています。ホロコーストという最悪の事態の中でも懸命に生き延びた人々がいた。私たち子孫はその証です」。こう語るヤクボビッチ教授の言葉には、一族の不屈の精神への誇りが込められていた。

(取材 高橋 文)

 

 

アンドルー・ヤクボビッチ教授(左)と叔父のマルセル・ウェイランドさん。同教授が手にしているのは、ウェイランドさんの自叙伝“The Boy on the Tricycle”。オーストラリア、シドニー、ポーランド総領事館にて、2016年5月。(同教授提供)

 

 

 

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