6 冷戦後のアフリカ
貧困削減を軸とする援助潮流の変化は、冷戦時代が終わったことで、先進国にとって援助がもつ戦略的意味合いが薄れて、より援助そのものの成果を重んじるようになったことも背景にあります。冷戦終結に伴うもう一つの変化は、東西両陣営の戦略体制からの解放と同時にアフリカ諸国において強権的政治体制からの解放により、一党独裁体制から複数政党制国家に変化したことです。これに加え、冷戦終了後の世銀・IMF、西側諸国は、アフリカ諸国に対して政府の良い統治(グッド・ガバナンス)、腐敗の防止、民主的な制度・政策が援助の効果を高めるために重要な要素であるとして、改善をうながすようになりました。
この背景には、アジア諸国のようにポスト冷戦時代にはいって多くの計画経済をとっていた諸国が市場経済に移行して、グローバル化の波に乗って一層発展したのに対して、アフリカ諸国はその波に乗り切れず取り残されたことは、単に市場主義経済を導入すれば経済が上向くような簡単な問題ではなく、当該国民に相応の「基礎体力」がないと市場経済は機能しないことが理解されてきたのです。さらに、90年代後半にはアフリカ諸国への援助効果を高める手段として、従来の「プロジェクト型支援」から各国ごとの事情に応じて援助政策を定めて、包括的に計画、実施、評価していく「プログラム型支援」に移行する援助手法が広がっています。また、援助資金の出し方も従来のプロジェクトごとに供与する方法に対して、援助資金をプールして統一したプログラム全体のなかで効果・効率的に使う方法(一般財政支援と言いますが)もとられています。こうしたプログラム型支援が広まった背景には、援助機関や援助国が協調することにより、統一した援助計画のもとに限られた援助資源(資金、人)をより有効につかうことを目的としています。
アフリカ諸国では経済を発達させるための「基礎体力」を付けるために、教育や医療等の貧困削減計画が出てきたのですが、実はこうした社会セクターへの協力もプロジェクト型支援ではそう容易ではありません。たとえば、医療の向上のために病院や診療所を増やすとします。建物や医療機器、薬剤は資金さえ投入すれば外国企業の活動でなんとかなるでしょう。しかし問題は、これらを運営する企業が投資効果を上げ得るようなインフラ整備やプラント建設面への協力が容易でないために、教育や医療等の貧困削減計画が出てきたのですが、実はこうした社会セクターへの協力もプロジェクト型支援ではそう容易ではありません。たとえば、医療の向上、医師、看護師、医療技術者の確保を同時に考えないと機能しません。特にこれらの有資格者、技能者はより良い条件をもとめて外国に「頭脳流出」していることが多く見られます。問題は人だけではありません。医療施設を機能させる電気、水道、通信、道路などのインフラが不十分なことが多く、僻地の診療所から地域の中心的な病院をむすぶ医療ネットワークや、それを才配する医療行政システムも機能していないことが多いのが現状です。もっと根本的な、医療従事者の給与の裏付けでさえ検討課題となるのです。先述のようにアフリカ援助でプログラム型支援が出てきた背景には、このように多面的な取り組みが必要な事情がありますが、医療セクターだけでこれだけの検討課題ですが、同様のことが教育等の他のセクターにもいえます。
さらに注目されるのは、新たなる援助の潮流では被援助国に、援助を梃子にして行財政改革や腐敗防止をもとめ、被援助側の内政に深く関与していくとの点です。また、アフリカの自立的発展のためには、財源もできるだけ援助にたよらず自前で調達すべきです。アフリカでは多くの人々が貧困で苦しむ一方で、少数でも富裕層がいますが、そうした層への課税等の措置をとることも重要です。こうした措置は何を意味するかというと、過去数十年のアフリカ支援をふりかえってみると十分な効果があがっておらず、援助側はその主たる原因が受入れ環境に問題があるとしていることです。援助は本来補助的、脇役的なものですが、アフリカの国々の受入れ環境や実施体制を援助側がいっしょになって整備していかなければ援助が効果を発揮しないと判断した末の措置であり、アフリカの発展はそれほどまでに困難な問題を抱えているということです。


7 日本の貢献
日本は91年の湾岸戦争で135億ドルもの多額の資金を拠出しましたが、この財政的な貢献は国際的にほとんど評価されませんでした。これにより日本の国民の間に、資金援助だけでは十分な名誉ある地位が得られないとの認識が広まり、後の自衛隊のPKO派遣にもつながりました。援助の世界においても同様で、日本の支援が評価を受けるには資金だけでなく汗をかくことが重要になります。この点であまり目立たないですが、日本の技術協力は専門家や協力隊員を途上国に派遣するだけでなく、途上国の人々の技術研修も実施しています。
そうした人の交流に加えて、この時期には日本は政策面でも特色ある動きをしています。先述のとおり、冷戦後には西側諸国に援助疲れが出てきましたが、日本はODAを維持、アフリカに対して積極的に取り組み93年に日本政府の主導により東京にアフリカ諸国の代表や援助側代表を集めて「第1回アフリカ開発会議(TICAD)」を開催しました。TICADは、その後も5年毎に開催されており2008年には横浜で第4回目が開かれました。こうしたアフリカとの対話は、中国など他の国も同様な試みを行うようになっています。また、日本政府は2000年7月、九州沖縄G8サミット前にG8と開発途上国代表の首脳間の対話を取り持ちました。このときの途上国代表はG77議長国のオバサンジョ・ナイジェリア大統領(当時)、非同盟運動の議長国のムベキ南ア大統領(同)、OAU(現AU)を代表してブーテフリカ・アルジェリア大統領、ASEAN/UNCTADを代表してのタイ首相の4名を東京に招いて会談の機会を持ちました。G8と途上国代表の会談は初めての試みであり、これが契機となり同様の対話やアフリカ支援が、その後のG8で継続的に行われるようになりました。


8 日本の課題
こうしてみると日本もアフリカに対してなかなかやっているじゃないかと思われるでしょうが、実際はアフリカ支援とはそう容易ではありません。本稿では「日本を元気にしよう!」という観点から書いているので、なるべくネガティブな話はやめて良い話を出していますが、すでに述べてきたようにアフリカは歴史の負の遺産も抱えており、また、いわゆる地球的課題といわれる多くの問題に直面しており、アフリカ開発はひとり日本の協力の良否ではなくて地球的な見地からの対応が求められます。ここで近年の日本のODAについて見ますと、さすがに本年の大震災後にODAを増額すべきという議論は影をひそめましたが、一時はODAの量的減少を問題視する意見もかなり出ていました。しかし、2000年代以降にODAが減少しているうらには、それまで被援助国であったアジア諸国の、特に大口の円借款の資金ニーズが減少して、なおかつ過去の円借款債務の返済がはじまり、統計上はその額が支出額を減少させるに至っていることがあります。同時に、現実的に見てかつての円借款の供与先にかわる、あらたな供与先がそれほど多くないことも原因です。日本の対アジア援助が効を奏した背景には、援助と民間企業の進出が相俟って進んだ結果、少なくとも1997年のアジア金融危機までは被援助国の生産が高まり、国民生活がゆたかになり、経済の自立化にむすびつき、同時に日本の企業も相応の利益をあげたことにあります。そのために、しばしばアジアにおける日本の成功体験をアフリカ支援にも応用すべきとの意見が出ますが、アジアの成功体験はそのままアフリカには使えません。なによりもアフリカ諸国は、アジアよりもカントリーリスクが高いため民間の直接投資が容易に進まないことが大きな課題です。
新しい援助潮流である「援助協調」においては、援助側の国際機関や国が被援助国に協力してその国の行財政計画を作成して、その共通の枠組みのもとに援助側の国際機関や国がそれぞれの果たす役割と貢献を相談、調整して全体の援助としていくのです。この方式は英国、北欧諸国、世銀などの主導で進められてきましたが、特に一般財政支援をはじめ、日本は供与国の顔が見えなくなるとしてあまり積極的には取り組んではきませんでした。しかし、行政機構の能力が限られたアフリカ諸国では援助の実施能力も限られており、援助プロジェクトを単体として進めても当該セクターや地域を全体としてとらえた場合、関連する課題を考慮しなければ、結局、開発効果をあげえないということになります。こうした途上国の事情は、私自身が協力隊員の時代から援助の現場にいて切実に感じていたことであり、そのために日本も比較優位となる方式やツールをつかって積極的に援助協調には参加していくべきと考えています。

続く

 

2011年11月24日号(#48)にて掲載

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