SPECIAL 2009

2009年5月28日 第22号 掲載


オリンピックへの熱い想い
スピードスケート選手だった姉故・汾陽(かわみなみ)泰子さんの思い出を語る
牛島清子さん


スピードスケート選手だった姉、泰子さんの資料を見せてくれた牛島清子さん。
女優の李香蘭(日本名・山口淑子)著『私の半生』を読みながら、満州での暮らしを思い出すこともしばしば

泰子さんは5000メートルの長距離が得意だった

2008年12月女性ホームレスワールドカップ(ジンバブエ)にて

『日本代表スピードスケート女子選手伯林(ベルリン)到着 昭和11年1月12日』と書かれた当時の写真(左端の女子が汾陽(かわみなみ)泰子さん)

 娘の由利さんに会いに毎年バンクーバーを訪れる牛島清子さん(東京都在住)には、冬季オリンピックに対する特別な想いがある。1936年(昭和11年)、ベルリン・オリンピックの年に行われた第4回オリンピック冬季競技大会。スピードスケート選手だった姉の泰子さん(当時13歳)は冬季オリンピック選手団とともにヨーロッパへわたり、第1回女子スピードスケート世界選手権大会に出場した。

満州でのスケート
 4人姉妹の二女である牛島さんは兵庫県に生まれ、幼いときに一家で満州(現在の中国東北部)に渡った。「奉天(現在の瀋陽)はモントリオールのように寒く、スケートが盛んでした。体育の授業もスケートでした」と話すように、4人姉妹も冬になるとスケートに明け暮れた。中でも長女の泰子さんがスピードスケートで頭角を現し、5000メートルの長距離を得意とした。

 スケートリンクは野外に水を流して自然に凍らせるもので、急に温度が上がるとでこぼこが出来てつまづきやすくなる。そのため、女学校の先生が泊りがけで水を撒いてリンクの整備をしていたのを覚えている。牛島さん宅でも4畳半ほどのベランダに水を撒いて、リンクを作っていた。

 両親は泰子さんのためにスケート靴の刃を外国から取り寄せ、トレーニング機械を購入。がっしりした体の泰子さんは、ボート漕ぎ型の機械で体力づくりに励んだ。「ゴムフーセンを一気に膨らませるなど、すごい肺活量でした」。試合がある日には朝から泰子さんにステーキが振舞われ、世界選手権に備えて泰子さんには英語の家庭教師がつけられた。妹たちと『姉だけが特別扱い』と、ひがんだこともあった。

1936年のオリンピック
 1936年はドイツ・ナチスのヒットラーが開会宣言をしたことで有名なベルリン・オリンピックの年である。当時は夏のオリンピックを開催する国が冬のオリンピックも開催するという慣習があり、この年の2月にドイツ南部バイエルン州のガルミッシュ・パルテンキルヘンで行われたのが、第4回オリンピック冬季競技大会だ。

 その頃の女子スピードスケートはまだオリンピック種目になっていなかったため、13歳だった泰子さんを含む満州在住のスピードスケート女子選手4人は、日本代表としてスウェーデンで開催された世界選手権大会に出場することに決まった。実際のオリンピックでは競技できないものの、オリンピック出場選手として扱われた4人の元には白いブレザーにベレー帽、日の丸のついたオリンピック日本選手団の制服が届いた。感激とともに、一段と気がひきしまった。いよいよオリンピックの地へ向かうのだ。『冬季オリンピック大会へ女子選手として出場のため』と書かれたパスポートは、大切な宝物となった。

 監督に付き添われて奉天を出発したのが前年の暮れ。ハルビンを経由してシベリヤ鉄道に乗り換え、1週間かかってモスクワに到着。そこで列車を乗り換えてベルリンに着いたのは1月半ばだった。


欧州渡航のために発行されたパスポート(左)。 ページを開くと『在奉天総領事、宇佐美』と印が捺してある(上)

 

 

 

 

 

 

 

ヨーロッパの競技場
 ヨーロッパ遠征の第一戦は、ノルウェーのオスロで行われた全欧選手権大会。到着してびっくりしたのは、スケート競技場の立派なこと。滑ってみると氷のコンディションが素晴らしい。そして競技場に集まった観衆の多いこと。大会に特別参加した4人は、ヨーロッパの競技場に感心するばかりだった。

 そしていよいよ本番はスウェーデンのストックホルムで行われた女子スピードスケート世界選手権大会。施設の広大で豪華なこと、場内を埋める大観衆から沸き起こる声援、みなぎる緊張した雰囲気に泰子さんは圧倒されてしまった。「緊張して思ったような成績に至らなかった」と悔しがった。ところがそれから約50年後、1985年のスポーツ新聞を見たときはびっくりした。『滝三七子が4位、木谷妙子が5位、汾陽泰子が8位にそろって食い込んだ満州トリオ』と泰子さんらの快挙が取り上げられたのだ。これは当時現役だった橋本聖子選手の報道とともに、スピードスケート歴代の記録を比較したものだった。

冬季オリンピック
 競技を終えた泰子さんらは、冬季オリンピックに出場する日本選手団の応援のためにドイツに戻った。同大会には4競技17種目に28の国と地域から668人の代表選手が出場。日本からは48人(役員14人、男子選手33人、女子選手1人)が参加した。この女子選手が当時小学校6年だったフィギュアスケートの稲田悦子選手である。

 12歳で最年少参加した稲田選手は、もっとも若くもっとも小さかったが、パリでしつらえた白く光沢を放つコスチュームに身を包んで銀盤を舞い、26人中10位の成績を収めた。観戦に来ていたヒットラーと握手したのもこの時だ。のちに稲田選手は当時を振り返り「外国だと周りが知らない人ばかりだから、気楽に自分の力が出せた」と話している。スピードスケートでは男子500メートルの石原省三選手が4位に入った。

 泰子さんの日記には『冬季スポーツの世界の水準の高さを嫌というほど見せつけられた』と書いてある。

悠々としたヨーロッパ旅行
 大会後は競技種目別のグループに分かれて、欧州19か国を訪問するという豪華なご褒美があった。多様な民族、風習に好奇心をそそられ、各地での歓迎会に振袖を着て出席すると、珍しがられ喝采を博した。「ドイツと日本が一番仲の良かった頃です。『ハイル・ヒットラー』と言えば、どこでも入場無料で入れてくれたそうです」

 2月末にマルセイユの港から、日本郵船の豪華船で日本へ向った。船上では日本の選手団と一緒に初めてダンスを習ったり、日本の歌曲を合唱した。地中海を過ぎてエジプトに上陸し、らくだに乗ってスフィンクスを見た。洋上の明け暮れ、甲板の上に出ても脂汗の吹き出る長い紅海。インド洋の航海を終え、シンガポールに寄港してやっと東洋の空気を吸ったときは、安堵感と喜びで胸がいっぱいになった。

 奉天朝日高等女学校1年だった泰子さんは、4人の中では最年少。ほかの3人は親が付き添ったが、家庭の事情で付き添いのなかった泰子さんにとっては、家族と離れた初めての長旅だった。そしてその遥かな思いは、その後もずっと胸のなかに刻み込まれた。

スケート界の今昔
 終戦とともに一家は日本へ引き揚げ、姉妹は結婚して国内各地に散らばった。西村姓に変わった泰子さんは京都でスケート指導を続け、1987年に65歳で亡くなった。東京に住む牛島さんは、毎週日曜日に仲間と一緒に多摩川上水を3時間歩く元気な83歳。体操教室にも25年間通っている。

 昔フィギュアスケートをしていた牛島さんは、日本の女子選手の活躍に注目しつつ、その衣装にびっくりすることもしばしば。というのも昔は肌の露出が禁じられていたため、衣装は黒のビロードで裾に白い毛皮がついたものが主流だったからだ。その重たい衣装をまとってクルクル回るとスカートの裾が広がった。「今のようにあんなに足を上げたり、激しい動きはなかったですね」と話す。

 毎年訪れるバンクーバーで冬季オリンピックが開催されることに、不思議な縁を感じている。姉を通して燃やしたオリンピックへの情熱と、スケートを通して得た貴重な体験。大切に保管している姉のパスポートやスケートの記録は、日本スケート連盟に寄付したいと考えている。

(取材 ルイーズ阿久沢)