SPECIAL 2009

2009年5月7日 第19号 掲載


日系移民の父、『本間留吉』を訪ねて(2)
〜本間敬さん、インタビュー〜


リッチモンド市から受け取った表彰状を手にする本間敬さん(左)と娘のテニーさん

“Tomekichi Homma; The Story of a Canadian” by K.T. Homma & C.G. Isaksson 家族だけが知る本間留吉が描かれている

 戦前の本間留吉の軌跡をたどった前半を書き終えて、私の中に2つの疑問が残った。ひとつは、なぜ若い彼が日系社会のリーダーとしてコミュニティーで認められていたのか。ふたつ目は、なぜ彼は『本間事件』後、表舞台から姿を消してしまったのかということだった。

敬さんとテニーさん

 本間留吉の5男の本間敬さんと、敬さんの娘で留吉の孫娘にあたるテニー・ホンマさんと初めて会ったのはリッチモンドでの授賞式だった。

 テニーさんが共著した"Tomekichi Homma; The Story of a Canadian"が、リッチモンド市よりヘリテージ・アワードを受賞し、その授賞式があるというので会いに行った。そこに敬さんも駆けつけていた。小柄で、人の良さそうなおじいちゃんといった風のこの人が、「留吉さんの息子さんなんだ」と妙な感動を覚えた。

 思わぬ対面だったが、インタビューの約束をして、後日改めて話を聞いた。

武士道と外国語

 本間家は、足利義氏の家臣で本間佐渡守源宗正を初代とし、その後、黒田家臣として仕えたという。

 留吉は、父の本間正忠、母チヨの4男として1865年に生まれた。正忠からは武士道を、勇気と義務と献身の精神を教わった。チヨからは学問を教わった。外国語をいくつか習得したという。特に中国語、広東語をうまく操る父の姿を敬さんは覚えていると言った。「(留吉の)ママはね、非常に学のある頭のいい人だったそうです。私の親父は、外国語やらをママから教わったと言っていました」

 そして、留吉は学問を究めるべくイギリスのオックスフォード大学へ入学するために日本を出発したと、テニーさんの著書にある。留吉がカナダに到着したのは1883年とされる。同年に日本を出発したとすれば明治16年。18歳ですでに武士道と外国語教育を身につけた青年は、イギリスではなくカナダで途中下船し、この地に留まることを決めた。

 当時、日本からカナダにやってきた人たちの多くは肉体労働に就いた。言葉がわからず、日本でもしっかりとした教育を受けていない人も多かった。そんな彼らに日本への手紙を書いたり、読んだりするのを手伝っていたのが留吉だった。

 「親父のところにはよく人が来て、手紙を書いてやったり、読んでやったり、また新聞を訳して読み聞かせてやったりとかしてたみたいです」。遠い記憶の糸を手繰りながら敬さんが話す。「何かわからんことがあったらうちに頼みに来ていたみたいです。そうして、みんなの信頼を集めていったんでしょうね。本間に頼めば何とかなるって」

 『フレザー河日本人漁者団体』の前身、『フレザー河漁師団体』が組織された1897年には若干27歳で初代会長に就任した。カナダに上陸して10年しか経っていない。両親の教えを守り、人々のために尽力できるリーダーとしての資質がもともと備わっていたのかもしれない。「それに人に頼まれるといやと言えない性格だったし」と言って、「ああいうことするのが好きな人だったですよね」と笑って言った。

すべては自分一人の胸に

 1901年12月7日イギリス枢密院の決定により、『本間事件』と呼ばれる日系カナダ人の参政権獲得を訴え続けてきた裁判で事実上完全敗訴となって以降、留吉は日系社会から身を引き、1909年にはウエストバンクーバーに移り住んだ。

 そこでの生活は決して楽ではなかったと敬さんは記憶している。敬さんの兄弟はみんな家計の足しになるよう手伝いをした。時々中国人が翻訳してほしいと本間家を訪ねてくるときがあったという。留吉は快く引き受けていた。「中国の人が頼みに来るとね、お礼にクッキーとかケーキとかくれるんですよ。それがうれしくてねぇ」と笑いながら話す。

 父親と誰よりも多くの時間を過ごした敬さんは、いろいろなことを覚えていた。書道をやる父親の姿、英字新聞、日本語新聞の記事を切り抜いてスクラップブックを作っている姿、晩年は17年も病床についていたが、その横にいたのも敬さんだったという。それでも、一度も『本間事件』のことも、それ以外の日系社会への活動のことも、子供たちに話すことはなかったそうだ。

 「それだけが残念ですね」。8人兄弟の中で下から2番目という敬さんは、父親の日系社会での活躍をほとんど知らず、兄たちから聞かされることが多かった。

 兄弟のように留吉と仲の良かった友達が訪ねて来て、『兄さん、話を聞かせてくれ』と言っても、「『私のよう、がんばこ(棺箱:和歌山弁で棺桶の意)の蓋を閉める時にみな分かるから、今そんな話はせんでもいい』と言って、とうとう最後まで話さんかったなあ」と残念そうに思いだす。

 なぜ話したがらなかったのだろう。理由を聞いてみると「さあ」と敬さんも首を傾げるばかり。今となっては確認のしようがない。『本間留吉』の功績について書かれた本は多いが、留吉本人が書いたものはないのだという。本人があえて残しておかなかったのか、存在したが紛失したのか、それさえもわからない。

 なぜ、何も残そうとしなかったのか。すべては自分の胸の内にと思ったのかもしれない。今は想像するしかない。

留吉の妻、マツの苦労

 「親父はね、ああいう(人にものを頼まれたらいやと言えない)性格だから、ママが苦労したよね」と話す。ウエストバンクーバーに移ったある時、バンクーバーから中山迅四郎が訪ねてきた。バンクーバーに移民してきた日本人たちの足跡を残すための本を編纂したいので、手伝ってくれという。いやと言えない留吉はその役目を引き受け、そのために町中を駆け回った。

 「ママは愚痴はあまり言わなかったけど、たまに怒ってましたよね。家から出て人の仕事ばっかりしてって。8人も子供がいるからね、食べさせなくてはいけなかったからね。ママは相当苦労しましたよ」とそばで見ていた光景を思い出しながら話す。

 本編纂のために情報収集し、執筆まで手掛けていたらしいというその仕事は7年の歳月を費やす一大プロジェクトとなっていた。つまり、7年間もちょくちょくと家を空けていたという。妻が怒るのも無理はない。しかし、そうして苦労してできあがった本は、『加奈陀同胞発展大鑑附録』と『加奈陀之宝庫』(著者兼発行者 中山訊四郎)という2冊にまとめられた。この2冊は今でも日本人が移民してきた当初を知る貴重な歴史的資料として保存されている。彼の功績は、今の日系社会でも確実に生き続けている。それは、留吉だけではなく、マツ、そして、両親を支えた家族みんなの協力があってこそだったのである。

太平洋を越えて

 敬さんに何気なく質問してみた。日本に行ったことは?と。日系二世、三世にインタビューするときには必ずする質問だ。その答えはほとんど『あります』である。しかし、敬さんは笑いながら首を横に振った。「日本に一回いかならんなあとワイフと話すことはあるんだけどね」と。

 今年2月88歳になった。今でも流暢な日本語を話す。日本を思っていないわけではない。

 この日は3月19日だった。インタビューの最中、話題は『朝日』ベースボールチームのことになった。戦前も戦中も、日系人が野球好きだったのは有名な話だ。すると会話の途中、いきなり目をキラキラさせて「昨日勝ったね!!」と言った。前日は、ワールドベースボールクラシックで日本がキューバに勝っていた。「韓国にはなかなか勝てないねぇ。でも今度が勝負やね」と。まだ一度も行ったことのない日本の代表チームが気になる。私には不思議だった。

 100年以上も昔、太平洋を越えてこの地を祖国と選んだ日本人たちがいた。日系コミュニティーを作り、その中で、本間留吉という人物は自らの利益など顧みず、当時の日系コミュニティーのため、将来の日系社会のために尽力した。その功績はよく知られている。しかし、その素顔はほとんど知られていない。

 今回、敬さんを通して、テニーさんの著書を通して、少しだけ本間留吉の思いを伝えられればと思った。

 自分の父親がこうして広くカナダで知られ、その功績を称えられていることをどう思うかと聞くと、「ものが言えんほどの気持ちやね」と声を詰まらせた。目に涙を浮かべ「涙出てきた」とぐっと言葉を飲み込んだ。「年のせいやろうか、こういう話をすると涙が出てきて…」と笑いながら涙をぬぐった。

 カナダではすでに本間留吉の名は、日系史ではなくカナダ史の一部として認識されている。留吉は、港を離れる船から遠くなる日本を見ながら、もうこの地に戻ってくることはないかもしれないと覚悟していたという。しかし、彼の名は日本史の一部として、再び太平洋を渡り日本にこそ伝えられるべきなのかもしれない。そうすることで、ようやく林林太郎氏の願いも叶うような気がする。

 

(取材 三島直美)