SPECIAL 2008
2008年4月10日 第15号 掲載
![]() ロイ・ミキさん。カナダで最も知られている日系人作家のひとりでもある。写真はキツラノのカフェで |
前回(2月28日号)は、詩について、収容生活についてなどを紹介した。今回は、日系カナダ人がカナダで最も注目を浴びた補償請求運動、それからの日系社会、そして、日系カナダ人としてのアイデンティティについての話をまとめた。
『補償請求運動』の始まり
ミキさんの記憶によると、『補償請求運動』が始まったのは1970年代半ばだったという。しかしあくまでも非公式で、ただ話し合いが持たれただけにすぎなかった。「その内容は、日系の歴史をもう一度自分たちの手に戻すということが大きな目的でした」と振り返る。
ミキさん自身はこの時、写真収集グループに加わった。日系三世、二世、それに一世(邦人)も多くいた。これらの写真は1977年、日系移住100周年記念企画「日系百年祭」で『千金の夢‐日系カナダ人の百年祭 A dream of riches』として出版された。このプロジェクトがやがて『補償請求運動』へと動くきっかけとなった。
「正式に動き出したのは、1977年NAJCが組織されてからでしたね」とミキさんは言った。実際には、JCRC(日系カナダ人賠償委員会)が組織され、1980年にNAJC(全カナダ日系人協会)と改称している。「この頃私はまだ入会していませんでした。相変わらず写真グループにいました」
ミキさんが本格的に関わるのは1981年、運動のためのグループが組織された頃からだった。「パンフレットを作って出版したり、なぜ補償請求が必要なのかを訴えたりし始めた時期ですね」。ただ、この頃はまだ小さなグループ活動にすぎなかったという。1983年に全国レベルの組織NAJCに加わった。そうしたことで小さな集まりだった活動も全国規模になっていった。1984年には兄のアート・ミキさんがNAJCの会長に選出された。
ミキさんは「ここが大きなポイントでした」と言う。「と言うのは、私たちの主張は個人補償を含んでいたからです」。補償問題は合意に至るまでに、日系カナダ人社会の中でも紆余曲折があった。その最たるものが、個人補償をよしとしない一世たちとの意見の相違だった。「私たちの主張はあくまでも『カナダ政府の民主主義冒涜行為』に対する政府の補償でした。個人が認められなければ民主主義ではないんですよ」と力を込めて説明した。結局1988年、政府との合意では、団体補償と個人補償を勝ち取った。
カナダ政府との決着まで
1977年に非公式ながら運動をはじめ、決着する1988年まで10年という期間を要した。さらに排斥政策が解除された1949年からは40年が経っている。現在のカナダを形成している根幹に『人権擁護』があることを考えるとあまりにも長い月日のように感じる。しかし、その過程を聞くとやはり機が熟す必要があったように思う。
ミキさんも主力メンバーとして参加していたNAJCが、カナダ政府と本格的に交渉を始めた1984年からの約5年間、担当大臣もコロコロ変わった。その度に交渉は暗礁に乗り上げた。「4人の大臣と交渉しましたよ。その間浮き沈みが何度もありました。一時はもう無理かなって思った時期も」と今だから笑って話す。
しかし、一度もあきらめたことはなかった。政府との交渉は常に強気で、安直な提案が示される度に拒否を続けた。一度などは政府がNAJCの同意なく議会決議しようとしたこともあったと言う。「しかし不思議なことに」とミキさんは言う、「こういう困難に当たるたびに組織の結束が強くなっていきましたね」
こうした粘り強い交渉の先に光が見え始めたのが1988年だった。『時勢』という風が日系コミュニティを後押しした。1988年当時のマルローニ首相は選挙を控えていた。「首相は(前回の選挙の前に)この問題の解決を公約したにも関わらず、まだ合意に至っていなかったので、選挙前に合意しておきたいという思いがあったんでしょう」
NAJCと当時のウィナー多文化主義担当大臣、それに一部の関係者だけで秘密会議が行われ、合意に至った経緯を説明してくれた。政府内にもほとんど知らされず、発表当日まで議会も知らなかったという。そして1988年9月22日マルローニ首相が合意を発表し、成立を見た。
合意に至った背景には他にも、アメリカで日系アメリカ人に対する補償問題が解決していたことも日系カナダ人にとっては追い風となった。そしてもうひとつは、カナダ国内で解決を望んでいるという雰囲気ができあがっていたことも大きかったと語った。このカナダ国内の動きにミキさんの文章力が大きく貢献した。
ミキさんの役割
「私の役目はプレスリリースを書く、公式要請書を書くなど、書くことから始まりました。英語科の教授という立場上、まあ言葉は私の仕事でしたからね」と笑う。NAJCにとっては大きな力になったに違いない。
こうした公的な運動というものには『書面』での要求が不可欠で、これがなければ始まらないのだ。『活字媒体』というものが大きな役割を果たしていた。
この運動を成功させるにはカナダ国民を味方に引き入れる必要があった。「カナダ人に何が起こったかを理解してもらうだけでなく、補償の合意がこの問題の唯一の解決方法であるということを説得する必要があると私たちは考えていました」
カナダ国民に訴えるとき、政府に対する要請文を作成するとき、メディアへの対応など、より効果的な文面を作るように心がけたと話す。「私の役目は、補償問題を支援することが、カナダの民主主義を守ることだと国民に感じてもらう文章を書くことでした」と説明した。
1988年以降に行われた調査ではカナダ人の85から90パーセントがこの合意に賛成しているという結果が出ていることから、ミキさんはその役目を見事に果たしたことになる。「実際この結果を聞いた時は、ホッとしました。カナダ国民がこの補償運動が『正しいことだった』と思ってくれたわけですからね」
そして「今から振り返ってみると」と言って、「この補償問題というのは単にお金を受け取るということではなくもっと深いところにあったと思います」。カナダ政府の採った日系カナダ人に対する政策は、国家の裏切り行為だったと認識していると言う。だから政府との合意も、「多くの人は『謝罪』と言っていますけど、私たちは『承認』と表現しています」と言った。
「国民は、政府が国民の権利を守るものであると信じています。民主主義国家というものは、この信頼関係の上に成り立っていて、これはいわば政府と国民の間の聖約とも言えるものです。自国民を侵略者として扱った行為は、その信頼関係を政府自らが侵したことになります。あの時の補償合意は、政府が私たちのために実行したものではなく、政府自らの誤りを修復するために政府にとっても必要だったものだと思います。そして、日系カナダ人だけでなく、いかなるカナダ国民に対しても同様のことをすれば、政府はそれに対してその代償を支払わなければならないという、いわばカナダの歴史において、金字塔のような役目を果たしたことになったと思います」と語った。
その後の日系コミュニティ
「あれから日系コミュニティはかなり変わりましたね」と答えた。「なんだか『静の時代』に入ったような感じですね」
例えば日系ヘリテージセンター。ここはこの補償請求運動で勝ち取った日系コミュニティへの補償金が建設費用に使用されている。しかしミキさんは、「私自身は建設の最初の段階でかなりストレスを感じてしまって、結局それからあまり関わらなくなりましたね」と話した。
「あの運動での盛り上がりを最後に日系コミュニティの結束というのはなくなった気がします。その理由のひとつには、私たち三世には自分たちの集団所属的な感覚がもうないんだと思います。日系人として以外の部分で忙しくて、コミュニティとして関わっていくというのが難しくなっているという感じでしょうね」
日系カナダ人としてのアイデンティティ
自分の中に日本人を感じることがあるかという質問に「波がありますね」と答えた。「全く日本人とは思えなかったり、かと思えば、『日本人だな』と思ってみたり、でもやっぱり違うと。これまでの人生で行ったり来たりしていましたね」
しかし「今ははっきり違うと言い切れますよ」と笑った。「でも私の中に、歴史として、遺伝子として祖父母から受け継いだ何かがあるのは事実です。だから(日本人としてでなくても)日本には親しみを感じるし、日本で何が起こっているかも気になりますね」
実際多くの日系カナダ人がこうした感情を抱いているように思う。そして彼らの多くは日本を訪れている。「私は1969年に日本に行ったんですよ。10年ほど日本に住もうと思って、妻と一緒にね。私は自分を(その頃)日本人と思っていましたからね」。日本の大学で修士課程を履修しようと考えていたという。そしてまず手始めに日本語の習得を目指していた。
「でも、1年2カ月くらい経った頃です。はっきりわかったんですよ。『私は日本人じゃない』って」と思いだしながらケラケラ笑って言った。「カナダで人種差別という経験をしていても、少なくともカナダ人の考えは理解できるんですよ。でもね」と言って、「確か赤坂見附辺りを歩いていた時かな。突然雷に打たれたように、『自分はここでは異邦人だ』っていう思いが走ったんです。ここにいる誰にもそれがわからないだろうけど、自分には日本人としての考えがわからないし、たぶん一生わからないだろうって。どんなに努力しても無理だなって。カナダに帰ろうって思いました」とまたケラケラ笑った。
「帰ってきてから確信しましたね、日系カナダ人の歴史を勉強しなくてはって。だから1975年に写真グループに加わった時はすでに準備はできていました」。そして補償請求運動につながっていった。
現在では、日系カナダ人に対する1941年から49年までのカナダ政府が採った排斥政策と、それに対する1984年から本格的に起こった補償請求運動は、カナダ140年の歴史の中で重要な位置を占めている。
今年は日加修好80周年という記念の年である。この短い歴史の中で、祖国日本と母国カナダの間で苦しんだ日系カナダ人の苦悩と闘いがあったこと、そしてこうした努力の上に現在の日加友好関係が積まれていることを改めて思った。苦い経験しかないように感じた日系カナダ人たちの日加関係だが、ミキさんが「実際はね」と笑って「日本での生活は楽しかったんですよ」と言った一言が印象的だった。
(取材 三島直美)