SPECIAL 2008
2008年2月28日 第9号 掲載
![]() ロイ・ミキさん。カナダで最も知られている日系人作家のひとりでもある。写真はキツラノのカフェで |
詩人・作家・編集者として幅広く活躍している日系3世のロイ・ミキさん。サイモンフレーザー大学(SFU)では30年間、Poetryを教える英文学教授として教壇に立っていた。
去年4月、ミキさんがthe Confederation of University Faculty Associations of British Columbia (CUFA/BC)より “Career Achievement Award”を受賞したことがきっかけでインタビューが実現。
『詩』について、『日系カナダ人の追放』について、『日系カナダ人補償請求運動』についてなど、多くの興味深い話を聞いた。
詩人として、教師として
広い分野で活躍しているがどれが最もミキさんらしいかとたずねたところ、「最近は詩人としての自覚が高いかな」と答えた。この10年くらいは創作活動に力を入れているという。「それ以前は教師として自分を見ていましたけどね」。SFUでは教鞭生活に一応の終止符を打ち、今は大学院生にアドバイスなどをしている。
詩人としての始まり
私にとって『詩』は、かなり若い頃から考えを表現する手段でした。13か14歳ごろからです、詩を作り始めたのは。その頃はライター(作家)を目指していました。その前はソングライター(作詞家)になりたかったんですけどね。まあ詩に傾倒していれば誰だって考えることでしょうけどね、ティーンエイジャーならね。
その頃はバンドも組んでいて、ロックンロールバンド。もちろん作詞もいくつかしましたけど、あまり上手じゃないなと正直思いました。そんなこんなでとにかく10代のころに詩を書き始めました。
始めたころは特にテーマとかはなかったですね。ただ、それが自分を表現する大きな力とでも言いましょうか。それから大学に進んで詩(Poetry)の授業を選択しました。自分の興味あることをより深く追求したくて。だから人生において『詩』にはずっと興味を持ち続けていることになりますね。
若い人たちに Poetryを教えるということ
詩にはずっと興味がありましたが、それだけでは仕事としてやっていけませんので、ほかのこともやりました。その一つがSFUで教えることでした。1975年頃から約30年間。私が担当していた授業はいわゆる大教室で行われるレクチャー形式の100レベルの授業です。大学生にPoetryを紹介するという仕事は楽しかったですね。中には日本人の学生も何人かいましたよ。
でも大学生という若者にPoetryを教えるのは大変ですよ。まず詩を読むということがどういうことかがわかっていませんからね。ただ、何かすてきな考えとか感情表現のことだと思っているのです。だから、授業の中でそれが『思考の構図』であるということを理解するのに戸惑うようです。単にやさしい読み物とか、韻やリズムだけで成り立っているのではないということ、話し言葉の持っている形式では表現できないものということを教えていました。
高校までにきちんと体系的に詩というものを教えてないので、だいたい詩に対して主観的で、懐疑的ですよね。詩を芸術として読むということを学んでいないせいだと思います。
SFUでは100レベルのEnglish授業は、単位取得のための必修科目です。Poetryの授業自体はもちろん面白いものなのですが、多くの学生は読む量が少ないので簡単だろうと思って取るようです。他の小説などを扱うEnglishの授業よりは読む量が少ないですからね。でも、受講してみるとびっくりするんですよ。詩とは奥が深いものなんですよね。
日系カナダ人強制移動について
1941年に日本軍が真珠湾を攻撃、第2次世界大戦に突入すると同時に、カナダ政府はBC州に住んでいた日系カナダ人を内陸部へ強制移動させることを決定した。その多くは、カナダで生まれたカナダ市民権を持つ人々であった。人々はBC州の内陸部やアルバータ州に移動させられ、ロイ・ミキさんの家族はマニトバ州へ移ることになった。
マニトバでの生活
「Internment(収容生活)」は、好むと好まざるとに関わらず、私の人生の一部です。私たちが行ったマニトバは、ほかの内陸部のキャンプとは違ったものでした。マニトバに行った家族は、農家としてシュガービート(砂糖大根)農園で閉じ込められた状態で働くことになりました。
しかも、ほかの土地に移動させられた人々のように多くの家族が一緒に暮らすというものではなく、単一家族での生活です。閉じ込められたというよりは監禁された状態で、移動すら許されていませんでした。
ほとんどの場合注目を浴びるのは、多くの日系カナダ人が強制移動させられたBC州内陸部キャンプでした。それは集団だったからだと思います。だから農家として一家族で移動した私たちのような日系カナダ人には、ほとんど注意が向けられませんでした。しかも『強制労働』状態で、私が覚えている限りそれはひどいものでした。賃金なども生きるための最低限のみで、ほとんど支払われないに等しいものでした。
原始的な未開の地での生活みたいな状態で、家も、防寒設備もひどく、生活状態はキャンプの方がましだったと思います。ほかの家族が一緒に住んでいるというだけで、助け合って生活できますからね。それに彼らはコミュニティーを組織することもできました。しかし、私たちは私たち家族しかそこにいなかったので、特に両親はつらい思いをしたみたいです。
フレーザーバレーからマニトバへ
マニトバへはランダムに選ばれて移動したわけではありません。この頃、政府はシュガービート農園で働く労働者を必要としていました。この時代、砂糖が不足していたからです。
1942年、政府が日系カナダ人を移動させる時に、家族を離散させるように計画しました。男性は道路建設キャンプに、女性と子供はBC州内陸部のキャンプに送られていました。
この政策は2、3カ月のうちに打ち切られたのですが、その2、3カ月の間に、政府は日系カナダ人をBC州から離れさせるために、農家が多く住んでいる地域、私たち家族も住んでいた今のフレーザーバレーあたりの家族に、家族が離散してキャンプに行かなくてもすむような提案をしてきました。それは、「もしシュガービート農園に行くというのであれば、家族一緒に行ってもよい」というものでした。
これによってこのあたりに住む多くの農家がシュガービート農園に行くことを決意しました。今でもウィニペグ(マニトバ州)には、ミッション、メイプルリッジなどから移り住んだ人が多くいます。その当時、この辺りには大きな日系コミュニティーがありましたからね。
* * *
日系カナダ人の強制移動収容は1941年12月から始まり、戦後の1949年4月まで続いた。第2次世界大戦中のカナダ政府によるこの日系人排斥政策は、多くの場合BC州内陸部での生活が語られ、マニトバやほかの地域での生活はあまり知られていない。
この問題がカナダで再び大きな脚光を浴びるのは、これから40年後の1988年である。9月22日、カナダ政府は、この間の日系カナダ人に対する政策が人種差別によるものであり人権侵害であったことを公式に『承認』。連邦議会でのマルローニ首相の発表により、日系カナダ人に対する補償が成立したのである。
ロイ・ミキさんは、兄のアート・ミキさんらとともに1970年代から始まったこの補償請求運動の中心的役割を果たし、政府との交渉の最前線にいた。一喜一憂したその時の模様は次回で紹介する。
(取材 三島直美)