SPECIAL 2008

2008年2月7日 第6号 掲載


「私のカナダ物語」 前田卓哉・多枝夫妻
  音楽を通じたコミュニケーションで地元に根ざして生きる


卓哉さん、多枝さんによるCD「Oranges and Lemons」のカバーとなった写真

根っからのエンターテイナー精神でバンドをぐいぐいとリードする卓哉さん

多枝さん率いる子供のコーラスグループは皆から「Tae’s Choir」と呼ばれている

Mount Olivet Lutheran Churchで演奏する前田ファミリー。左から金太君、多枝さん、卓哉さん、門太君



 表情豊かにタクトを振る指揮者・Tak。彼の高揚感がメンバーを刺激すると、気持ちがはじけて生き生きとしたサウンドが生まれる。確かな音楽センスと豊富な経験を持ち、あふれるユーモアで市民バンドのメンバーに慕われるTaKこと前田卓哉さんはプロのトランペット演奏家。25年連れ添ってきた妻の多枝さんはピアニスト。二人が共に演奏すると、トランペットの洗練された味わいに、優しい思いを乗せたピアノの音が重なり、人生の奥深さが見事に表現されていく。

 卓哉さんは現在、West Vancouver Concert Band、West Vancouver Adult Pops Band、Northshore Concert Bandの3つの市民バンドの指揮者として活躍している。いずれもバンドからラブコールを受けての就任である。各バンドが年に8〜10回のコンサートを行うため、多い時期には、週末ごとに出番が待っている。1日に複数のステージに立つことも稀ではない。

 卓哉さんはソロのトランペット奏者としても演奏活動を行っており、多忙を極めているが「自分がやりたくてやっていること」との思いが気力となっているのだろう。これまで二千回を超すコンサートに、自分の病気で穴を開けたことは一度もない。「もちろん鼻を赤くしながらステージに立ったこともありますけどね」と卓哉さんは屈託のない笑顔で語る。

 妻の多枝さんもピアノの才能を生かし、ピアノやオルガン奏者として、またピアノ指導やピアノの資格審査員として活動。さらに日本人コミュニティーでは、「歌声喫茶」の伴奏者を務め、卓哉さん同様、音楽を通じて地域に密着した生活を送っている。

故郷を思わせるカナダへの移住
 「ピアノや弦楽器をやる人はヨーロッパに、ブラスをやる人は北米に目が向いている」(卓哉さん)。

 渡加前の卓哉さんは関西フィルハーモニー管弦楽団のトランペット奏者としてフルタイムで仕事をしながら、頻繁に単身でブラスの本場・アメリカへ渡っては各地のコンファレンスやフェスティバルに参加していた。楽しく刺激のあるアメリカを活動の本拠地にとの思いも少なからずあった。しかしすでにミュージシャンとして地盤を固めた日本を離れてまで、激しい競争社会に身を置くまでの求心力はアメリカにはなかった。だが85年の夏、ステージ出演のために足を運んだカナダで卓哉さんは思った。「アメリカと違って、ここではミュージシャンもリラックスしている。ここでだったら長く住んでやっていける気がしたんです。バンクーバーは自分の地元・神戸にとても似ていて、外国にいる気がしなかったこともあります」

 だが音楽家での移住は難しいことを知り、移住の策を模索した。そこでわかったのが、カナダに楽器の修理技術者が少ないことだった。もともと自分で楽器を直していた卓哉さんは、その技術をプロの域に高めようと、修理技術者に指導を頼み込んで、仕事の空き時間に技術を学んだ。勉強開始から4年後、履歴書を送ったバンクーバーの楽器販売会社から好意的な返事が届いた。面接、実地試験を経て採用が決まり、カナダへと移住したのが90年のことだ。

 多枝さんはと言えば、同じミュージックスクールで出会った卓哉さんと結婚後も、ヤマハ音楽教室の若手講師たちのための指導スタッフとして、公私共に充実した生活を送っていた。そうした日本での生活を手放すには少々勇気が必要だったが、海外への憧れと「一回切りの人生だから、何かしてみたい」との思いがカナダ行きを後押しした。いざバンクーバーへと移り住んでからの多枝さんは、人生の異なる側面を見る思いだったようだ。「移住当時、収入は少なくなりましたが、時間はたっぷりあったので、日本に手紙を出すにも便箋を買う代わりに、2才だった長男と散歩の道すがら見つけたかわいいお花を押し花にしたりして、楽しく良い時間を過ごすことができました」

 いつしか多枝さんの音楽経験を知った人たちから、ピアノを教えてほしいと声がかかるようになり、バンクーバー交響楽団のバイオリン奏者・松本昌子さんと知り合ってからは彼女の生徒たちの伴奏を頼まれることになった。また日本人コミュニティーでは、月に一度の「歌声喫茶」の伴奏者を務めて8年目。参加者に生演奏のもとで歌う喜びを提供する貴重な存在となっている。そのうえ多枝さんにはカナダのヤマハ音楽教室の本部から、グレード試験の審査員の仕事が舞い込んできた。以来、トロント、エドモントンなどに出向くことも多くなった。「そんなことがカナダでできるようになるとは」と、思いもよらない形でカナダでの音楽活動の道が開かれていったと言う。

家族のハーモニーがひとつになって
 前田さん夫婦は、家族でも音楽活動を行っている。それはノースバンクーバーのマウントオリベットルーテル教会でのイースター礼拝で、卓哉さんがトランペット演奏を頼まれたのがきっかけだった。以後、家族で教会に足を運ぶようになり、現在は多枝さんが同教会のオルガニストを務め、卓哉さんと次男の金太君(15才)がトランペットで、長男の門太君(20才)が ユーフォニアムで加わり、家族によるカルテット演奏が毎週行われている。この前田ファミリーの評判は、地元の教会関係者たちの間で少しずつ広まり、今ではバンクーバー周辺各地のイベントに出演を依頼されるようになった。去る1月20日にもメープルリッジの教会が前田ファミリーを招き、ホームレスの人たちなどにケアを与えているクリスチャン組織を経済支援するためのチャリティーコンサートを実施。前田ファミリーの紡ぎ出す素晴らしいメロディーに、集まった人たちが感激の表情で応えた。

 門太君も金太君も遊びたい盛りの年頃だが、コンサートの練習は一番の優先事項と決めているという。「『来月にコンサート出演の依頼があるけど、どう?』と息子たちに聞くと、毎回『必ず行く!』と言うんです」(卓哉さん)。「きっと子供たち自身に手応えがあるからでしょうね」(多枝さん)。彼らはいつも演奏当日の朝になると自主的に多枝さんの使うキーボードを車に運びこんでくれるという。コンサートは自己表現と社会貢献の場を子供たちにも与えてくれる、かけがえのないものとなっているようだ。

導かれるようにカナダでの音楽活動が展開
 子供と言えば、多枝さんが3年前から教会で始めたのが子供のコーラスグループ。レッスンの合い間に、多枝さんが即興で軽快なメロディなどを奏でて「どんな感じがする?」と印象を聞くと、「キャンディランドに来たみたい!」と子供たちは喜んで弾むように舞い踊る。こんなひと時や、集まりの最後に多枝さんが一人ずつに「ありがとう、良かったよ!」とハグをしたときの笑顔に、子供との交流の喜びがつまっている。さらに昨年はフルート奏者の小西千恵子さん、丸山一恵さんと「トリオ・ピアチェーレ」を結成し、初のリサイタルで成功を収めた。そうした活動のどれを取っても「与えられたこと」から展開したものばかり。多枝さんはそれをすっと受け入れたことで活動の幅が広がってきた。

 他方、家族を率いるのみならず、今では3つの市民バンドを率いる卓哉さん。移住当時はバンド関係者の知り合いも皆無で「バンドの指導のチャンスはないだろうな」と思っていたという。しかし長男が参加したユース・バンドの指揮者が欠けたことがきっかけで、卓哉さんに声がかかった。そのうち彼の手腕が皆の知るところとなって、バンドから引っぱりだこの今の状態がある。「有名になりたいとか、高く評価されたいなんてことを目標に掲げて音楽をやると、必ず行き詰まります。一つ一つのコンサートを一生懸命、自分たちにできる最高のものをやるだけ」。いつも思いはこの一点にある。「この人の集中力はすごい。でも食卓で会話しているときに上の空だったりと、抜くときにはしっかり抜いていますね」と多枝さんは微笑みながら語る。

 音楽を離れての生活は考えられない二人。「ふたりとも一生現役でしょうね」と語る前田卓哉さん、多枝さんの音楽への情熱から奏でられるメロディが今年も当地を温かく包んでくれそうだ。


(取材 平野香利)