SPECIAL 2008
2008年1月1日 第1号 掲載
![]() 新著『KUROSHIO』を手にするテリー・ワタダさん |
![]() バンド"Number One Son" |
多才、多芸なアーティストとして、幅広い活動を続けるトロント在住のテリーワタダさん。大学時代から音楽活動を始め、カナダはもとよりアメリカ各地でも演奏した。日系社会をテーマにした彼の曲は、日系カナダのリドレス運動にも影響を与えたと言われる。新著『KUROSHIO』の出版記念パーティーでバンクーバーを訪れたワタダさんにお話を伺った。
母親から聞いた話
ワタダさんのルーツは日本海側の福井県。1900年代の始め頃、祖父がカナダに出稼ぎに来たのが最初だ。祖父は一旦日本に戻り、次男であるワタダさんの父親マツジロウさんをカナダに連れてきて、仕事を見つけてやり、定住できるよう取り計らった。「まだ14歳だった父は祖父に置いて行かれ、大変なホームシックだったようです」とワタダさん。
8年後、日本に戻ったマツジロウさんは、16歳のチサトさんと見合い結婚。カナダについて何も知らず、白人すら見たことがないチサトさんは、怖くてカナダ行きを躊躇。ところが、日本にいたら兵士として満州に送られると言われ、マツジロウさんは先にカナダに戻った。チサトさんは2年間ビザが出るのを待ち、18歳の時ひとりで船に乗ってやってきた。
「波止場では父のいとこが待っていて、伐採キャンプに連れて行くと言ったそうです。初対面の男を信じてついて行くのは、不安だったと思います」
幸いにも無事にたどり着いたキャンプ。だが男所帯に寝る訳に行かず、チサトさんは鶏小屋を掃除して、そこで寝泊りした。「母は、死ぬ日まであの鶏小屋の匂いを忘れないだろうと言ってました」
過去の事実
ロックンロールをやっていたワタダさんは、1970年代にシンガーソングライターが登場し始めると、自分でも曲を書くことにした。では何を書こうかと思った時、両親のことを何も知らなかったため、ふたりが出会ったいきさつを聞くと「バカタレ。知らなくていい」との返事が返ってきた。何度も頼んだ後、やっと話を聞き出せたという。「誰かを好きになって一緒になったのとは大違いの、この話が信じられませんでした」と話す。
その後、父親からも話を聞き出すようになって、過去の事実に驚かされたという。特に戦時中の日系人強制移動の話は、一般的には聞いていたものの、自分の両親が収容所に送られたとは知らなかった。
日本人だから受けた不当な扱い
それを機に調査を始めると、日系人には1949年、つまりワタダさんが生まれるわずか2年前まで選挙権がなかったと知った。トロントもモントリオールも、1949年まで日本人は居住出来なかった。一定の区域のみに居住を限定されたりもした。ところがユダヤ人だけは別で、場所を借りて商売をすることが出来た。
この事実を知り、子供の頃、自分が日本人だという理由で、まわりから正当に扱ってもらえなかったことなどが思い起こされたという。
アジア系同士の共通点
両親の話から曲を作り、ギターを弾いて歌った。同じように、異文化をバックに持つカナダ人と共通点を見出し、日系、中国系と分けずに、自分たちのことをアジア系カナダ人と呼んだ。曲の内容は歴史的なものから抗議するもの、大陸鉄道で働いた中国人の歌もある。
ワタダさんの歌が日系カナダ人リドレス運動と結びついたことは、ラリーやフォーラムで歌ってほしいと依頼されたことからもわかる。リドレス達成後は、トロントの市役所、カムループスやニューデンバーのコミュニティホールでも歌った。またアメリカ西海岸、中部、東海岸の都市で歌ったことから、ワタダさんの活動は、アメリカでのリドレス運動和解のためにも貢献したようだ。
演奏活動から演劇へ
大学では英文学を専攻し勉強していたが、その間にも歌ってほしいとの誘いがかかり1977年、日系カナダ人100年祭の年の『第1回パウエル祭』に招待された。ウィニペグの日系社会ほか、カナダ中からもお呼びがかかった。
初のレコードアルバムを、バンクーバーに住むマーティン・コバヤカワさんと一緒に録音し、フォーククラブやバーでも演奏するようになった。
同じくパウエル祭を通して知り合ったのが、日系劇作家のリック・シオミさんだ。「アジア系カナダ人のテーマは、メインストリームで取り上げられることがないから」と、トロントでアジア系カナダ人の演劇グループを始め、ワタダさんの演出と音楽で、シオミさんが書いた『イエローフィーバー』を上演した。
かつての収容所を訪問
1980年からは、トロントのセネカ・カレッジで英文学を教えている。1984年に母親が亡くなると、その追悼の過程で、20ページに渡る長い詩を書いた。それが最初の詩集『Thousand Homes』として出版された。続いて第2作が出版されたり、トロントの仏教会から依頼されて、歴史本も執筆した。
その頃NAJC(全日系カナダ人協会)は、収容所のあったニューデンバーやスローカンを訪ねるツアーを主催。ワタダさんはツアーに参加して、収容経験者の1世や2世から話を聞き、そこから短い作品が誕生した。
小説を書こうと思ったのは1977年。「今になってようやく出版にこぎつけましたが」と笑う。執筆は、カレッジの仕事の合間や夜。締め切りがあるというのも、役立っているそうだが、何よりも理解してくれる奥さまに感謝している。
殺人事件を小説に
小説『KUROSHIO』の執筆は、1939年頃の新聞記事を読んだことから始まった。そこには日系の母と娘の殺人事件が記されていた。「一世の女性が殺人をしたというのは、熱烈な感情を持つ真の人間だったということですね。そこに興味を持ったんです」。母が娘を殺したことは周知の話なのに、誰も捕まらず、誰もその話をしない。ワタダさんは、そこにギャングのモリイが絡んでいるのではないかと、想像をめぐらせた。
モリイとは、ブラックドラゴン・ソサエティーに入っていたモリイ・エツジという実在の人物だ。「もしこの母親が逮捕されて、死刑になったとしたら、それはカナダの日系社会、日本の天皇に対しても不名誉なことですよね。モリイは戦前、天皇崇拝者でしたから」。こうしてフィクション小説が出来上がった。
日系人として思うこと
ワタダさんにとって日系人であるという意識は、常に生活や人生の中心に位置しているという。深い歴史を持つ日本文化に支えられ、アイデンティティを引き出すことが出来るからだ。
トロントの『日系ボイス』紙では、コラムニストとして、アジア系カナダ人に対する暴力など、周囲で起こっている事件を取り上げている。「例えばトロント北部で若い白人が、魚釣りをするアジア系の人を殴って海に投げ込む、という事件がたびたび起こりました。これはもうレイシストですよ」と問題意識を投げかける。1991年にはトロント市より、人種間関係向上に寄与した人に贈られるウィリアムP・ハバード人種関連賞を受賞した。
多芸なアーティストとしてのワタダさんの歩みは、戦後世代による、日系カナダ文化の創造の過程とも言われる。「アジア系カナダ人に関する差別問題は、常につきまとっています。それに対して言葉や演劇で立ち向かうことの出来るアートをこれからも作っていきたいです」と話してくれた。
* * *
ワタダさんは、初めてバンクーバーに来た時、両親がカナダでの生活を始め、お兄さんがここで生まれたこともあり、自分のルーツを感じたという。当時の日本人街に行き、人々に昔の生活について聞いた時は満足して『feels like home』と実感した。これからも日系社会の歴史や出来事を、いろいろな形で表現していってくれることだろう。
(取材 ルイーズ阿久沢)
(注)リドレス運動:日系カナダ人は、第二次世界大戦中および戦後にかけて、カナダ連邦政府から受けた扱いに対して、損害の補償(リドレス)、人権救済、名誉の回復をリドレス運動により求めた。
テリー・ワタダさんプロフィール: |