SPECIAL 2007
2007年12月6日 第49号 掲載
![]() バンクーバー日系キリスト教会の牧師として、ルースモルトン・メモリアル・バプティスト教会で現在も礼拝を行う横山赳夫さん |
![]() 陸軍幼年学校に通っていた頃 |
![]() カナダに渡った頃の横山さん |
「必ず道は開かれるんだ」。希望を持って単身乗り込んだカナダ。神学の勉強への情熱が横山赳夫(よこやま・たけお)さん(78歳)をこの地に運んでから、ちょうど50年の月日が流れた。
16歳でキリスト教と出会う
東京の軍人の家庭に育った横山さんは、2人の兄の歩みに続くようにして、陸軍の幹部養成学校である陸軍幼年学校に入学し、14歳であった2年生の時に終戦を迎えた。
戦後も横山さん一家は、地元・千葉県で開かれたキリスト教の野外集会に足を運び、初めてキリスト教に接した。横山さん16歳の時だ。「索漠とした、すさんだ心で訪れた人々を、教会の信者の人たちがひじょうに温かく迎えてくれました。クリスチャンは普通の人が持っていない精神的な何ものかを持っていると私は感じました」
その後、会のパンフレットから、「人間の不幸の原因は人間の罪の問題。人間は人間を救うことはできない。そこで神はイエス・キリストを地上に派遣し、私たちの罪を背負って十字架を背負って死ぬことによって自分で罪ほろぼしをすることでなくして、キリストの犠牲によって神によって一切許される」と教えられ、だんだんとキリスト教のことがわかりかけてきた昭和21年、船橋教会で洗礼を受けた。「何を差し置いても伝道を。自分は神様に一生仕えて生きていくんだ」という純粋な思いが人生の中心に据えられた。
「今思えば、自分がこの道を選んだのではなく、神の選びがあったのだとわかります。神は一人一人を呼んでいらっしゃる。これを『召命(God's Calling)』と言いますが、『この人は教会に仕える人である』と自分を呼んだのだと思います」
留学から始まったカナダ生活
「キリスト教の源泉を辿りたい」と留学を志した横山さんに、師事していた先生がトロント・バイブル・カレッジ(現・ティンデール神学大学)への入学を手配してくれた。「カナダであればどこでもいい」と東京湾から乗り込んだ船の到着予定地は、バンクーバーアイランドの北、ポートアリス。その地に到着してみると、ちょうど港内の搬送船の船乗りがストライキ中だったために、寄港先を変更し、乗船から18日後にようやく米国のポートエンジェルに到着した。だが米国のビザを申請していなかった横山さんは国外退去を禁じられてしまった。だが、船会社からの連絡を経て、当時旅行代理店勤めのゴードン門田氏が迎えに来て、彼の手続きのおかげで退出の許可が下りたのだった。トラブル続きではあったが、行く先々で道が開かれることを感じていた。
乗船したときの持参金は父から借りた300ドル。アメリカドルが1ドル360円、カナダドルは390円の時代で、当時パン1斤は14セントだった。船賃が220ドル、バンクーバーからトロントまでの列車代に74・50ドルを払い、トロントに着いた時点で手元にあったのは5ドル以下。しばらくの間、コッペパンをかじりながら過ごしたという。「それが私のスタートでした。まだ家族がなく、自分ひとりだったからできたことでしょうね」
トロントでは学業の傍ら、皿洗いやガーデナーの仕事などで生計を立てた。大工の仕事は一階の床で打った釘の先がベースメントから出ていて、3日で首になったことも今は笑い話だ。苦学生でありながらも、ネイティブ・スピーカーである地元学生を差し置いて、トップの成績を収め、卒業生総代となって卒業した陰には、並々ならぬ努力の積み重ねがあったことだろう。
廸子さんの内助を受けながら日本人への伝道活動に邁進
時間は前後するが、学生として滞在中、カナダ政府から希望者に永住権を与える特別な法令が出されたおかげで横山さんがカナダ永住者となれたのは1958年のことだ。
横山さんは東京の聖書神学院で講師をしていた際に知り合った廸子(みちこ)さんと婚約を取り交わしていた。トロントの日本人伝道の牧師補助の仕事を得た横山さんは、5年間の遠距離恋愛の末、62年には徳島で婦人牧師として活動していた廸子さんをトロントに呼び寄せ、結婚式を挙げた。
伝道活動を行うなかで、印象深い経験の一つは、資金集めのために方々の教会へ足を運んだこと。相棒の牧師と一緒にギターと歌とで日本人教会の存在を紹介して回ったのである。
その後、バンクーバーにいた牧師と入れ替わりで、19644年トロントからバンクーバーの福音教会に移った。信徒はわずか二人。それがスタートだった。
日本語学校運営と教科書作りにも情熱を注いで
生計を立てるために横山さんはUBC内の北太平洋漁業国際委員会で翻訳業務を中心とした職を確保し、廸子さんはスティーブストン日本語学校で教師を始めた。2歳児と1歳児を抱えてバーナビーからスティーブストンへ。幸い、生徒の母親のなかで、クラスの時間には子どもたちをみてくれる人が現れ、人に助けられながらの勤めが始まった。
日本語学校での仕事を始めて1年と経たないうちに、校長である奥山さんがガンに倒れた。奥山さんが亡くなる直前、病床で横山さん夫妻に「後をよろしくお願いします」と言い残し、この世を去った。遺志を継いだ横山さんはそのときから日本語学校の校長兼教師になり、二足どころか三足のわらじを履くことになったのだ。
日本語の指導において転機になったのは、教科書編纂事業。当時のバンクーバー日本国領事館の領事であった川本開作さんの「カナダの学習者に合った日本語教科書を」という発案から、横山さんが編集長となり、グレーターバンクーバー地域の日本語学校関係者が集まって教科書を作成していった。カナダと日本の両国の文化を学べる題材使用、巻末に付けた本文の英文対訳など、随所に工夫を凝らした全七巻の大作の完成までには、実に15年の年月が費やされた。精魂込めたこの教科書を使いたいという思いが原動力となって、リッチモンド日本語学院を創設。横山夫妻はさらに教科書に沿った練習帳と教師用の指導書まで作り上げた。現在も運営中の同学院では、昨年の日本語能力試験受験者が12人で、そのうち11人が合格。今年も1級を含めて13人が受験予定という、高い成果を生み出している。
牧師生活ではケローナの支教会へも通いを続けた
こうした多忙な生活のなかで、カナダで三千組以上の結婚式を執り行い、また当地での伝道に加えてケローナへの出張も26年間続けた。だが冬場の行き帰りは危険を伴うものだ。その日もケローナでの礼拝を終えて自宅に帰るため車を走らせていたが、山のなかを走る道のりの途中で、横山さんの車が止まってしまった。「ファンベルトが切れてしまい、オーバーヒートしてしまったのですね。ラジエーターの水もすっかりなくなって、どうにも動かせない。それで道端に車を止めて、ブランケットを取り出して、夜明かししようと思っていましたら、そんな夜中に車の窓をトントンと叩いて、『お前、どうしたんだ?』と尋ねる人がいる。事情を話すと、彼は自分の車から保温ポットを持ってきて、そのなかのコーヒーをラジエーターに注ぎ入れ、ファンベルトの代わりにナイロンのストッキングを使って応急処置をしてくれたんです。戦争後、ナイロンと女性は強くなったと言いますが、本当に助かりました」。そうして最寄りの町・ホープに行き着くことができ、無事ファンベルトの交換ができた。彼はエンジェルだったのではないかと、横山さんは感じている。
人間関係の悩みに答えて
45年連れ添ってきた廸子さんから見た横山さんのお人柄を伺った。「この人は、自分から人を傷つけることをしません。人から何を言われても黙って何も言わないのです。そういう点を尊敬しています」(廸子さん談)。その言葉に対して「時が解決することもありますから」と横山さんは変わらぬソフトな口調で語った。
さまざまな人間関係の悩みをどう考えるかと尋ねたところ、廸子さんが「どこまでいっても人間は人間。みんな欠点がある不完全な存在です。お互いにその不完全な部分を忍び合い、お互いの徳を立てあうことが大切なのではないでしょうか」と答え、それを受けて横山さんが「キリスト教では『自己EQ磔殺(Self Denial)』という言葉がありますが、肉・欲・情を十字架にはりつけにして殺すこと、己に死ぬことが究極の目標です。悪口雑言を言われても、己が死んでいればリアクションが違ってきます」と答えてくれた。
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静かな物腰でいつも笑みをたたえている横山さんのクリスチャンネームは「ジョナサン」である。旧約聖書に描かれているジョナサンは王位の継承権をもつ人物でありながら、その王位を最愛の友であるダビデに譲ったという、自分を無くして人を立てる無私の人であった。伝道を志した16歳のときから、3人の子ども、5人の孫を持つ今も、横山さんはジョナサンを生き続けている。
(取材 平野香利)