SPECIAL 2007

2007年10月25日 第43号 掲載


日本政府より『外務大臣表彰』を受けた
日系プレース基金理事 林光夫さん


林光夫さん


恵美子夫人とバンクーバーの自宅にて

インドのタージマハルにて。退職後の数年は海外旅行を楽しんだ。

 このほど日本政府より、海外で日本との友好親善に貢献した人に与えられる『外務大臣表彰』を受賞した林光夫さん。退職移住後、日系プレース・プロジェクトに参加し、日系コミュニティーに大きく貢献してきた林さんだが、現役時代は、日本企業の駐在員としてバンクーバーに滞在。日加経済交流にも深く携わってきたという。そんな林さんに、北米との関係や、退職後の生活、日系社会の今後などについて聞いた。

国際時代に向け、渡米
 大学卒業は1958年(昭和33年)。その前年、そろそろ就職の事が気になりだした頃、故郷の教会よりある人を紹介されたという。「ニューヨークから帰国したばかりの通産省の方で『これからは国際社会だ。紹介してやるからニューヨークへ行け』と勧められたんです」。7人兄弟姉妹の次男として育った林さんには、故郷長野の実家へ帰る予定もないことから、ニューヨーク行きを決意した。

 ところが、今のように、個人の渡航が簡単に出来なかった時代。渡米には、現地の個人または企業からの受け入れ、あるいは入学許可が必要だったという。まわりの友人たちが、就職活動に励む中、林さんは渡航書類を揃えて提出。大学卒業後は、小さな貿易会社でアルバイトをしながら、英会話のレッスンに通い、渡航許可を待った。最終的に出発が決まったのは、大学を卒業した年のクリスマス直前だったという。
 
ニューヨークへは来たものの
 ニューヨークに着いてみると、聞いていた話と現実との間に、大きなギャップを感じた。雇ってくれた会社は、組織体制が整わないまま1年程で解散。さらに移った別の企業でも、北米計画を中止し、事務所は閉鎖された。「それから苦労の生活がさらに1年以上続いたんです。今考えてみると、経済面も含め私の人生の中で、最悪の状態だったと思います」

 そんな中で、クリスチャン家庭に育った林さんは、ニューヨークの日米合同教会に通い、戦前から住んでいる一世や二世の方の世話になったという。米国生まれのカトリック信者である恵美子さんとは、教会の集いを通して知り合い、61年に結婚。「このような環境をどのように改善出来るか、ふたりで考えました」。そんな折、教会から紹介を受け、当時の日本鋼管ニューヨーク事務所に応募。現地社員として採用された。

ビジネススクール入学
 仕事が決まって、環境整備が出来たものの、林さんは更に向上を求めた。「アメリカに残るためには、ビジネススクールに行くべきだと思ったんです」。まだTOEFL制度が確立されていなかったため、語学コースに1学期通った後、ニューヨーク大学ビジネススクール(大学院)の夜学に入学した。
 そこで英語に磨きがかかったそうだが「英語の先生はこっちですから」と恵美子さんを指さす。「ちょっとした言葉の間違いなどは、その場で指摘され直してもらって、少しずつモノになってきたと思います」と、奥様への感謝と尊敬の意を表す。

 マンハッタンで仕事を終え、5時半からの授業に出席。「毎週レポート提出があったんです。エミにはこの原稿をタイプしてもらったり、ずい分協力してもらいました。昔の手動タイプライターですから、間違ったらその頁を全て打ち直ししなければならない訳です」。出張の際には、代わりに講義に出てノートも取ってもらったそうで、奥様の内助の功による二人三脚が伺える。その頃は良き時代で『代理出席』が認められたという。

多忙だった駐在員時代
 稀にも正社員として採用された林さんは、卒業の翌年、日本の本社勤務となった。ニューヨークに2回合計14年、バンクーバーに2回合計11年、と北米での勤務を長く経験。

 バンクーバーへは、74年に事務所開設準備で訪れ、引き続き駐在員として奥様と共に79年まで滞在した。夜行便で東部へ飛び、日中業務を終えて夕方の飛行機でバンクーバーへ戻り、一日置いてまたアルバータなどへ出かける、という無理な出張もこなした。カナダ北極海石油・天然ガス開発プロジェクトで、何回も北極圏へ出かけたことは、今でも懐かしい思い出だという。

 2度目は83年から89年まで駐在し、この間バンクーバー事務所の所長に就任。日加経済人会議の現地の日本側責任者として、日本経団連やカナダ政財界にも、つながりを持った。

 「この頃は日本企業によるバンクーバー進出の全盛期で、バンクーバー貿易懇話会の会員会社数は120社以上、駐在員の数も多かったですね」と当時を振り返る。

日系社会へ恩返し
 93年に退職後、バンクーバーへの移住を決めた。林さんにとって恵美子さんとの関係は、夫婦であると同時に親友でもあるという。最初の数年は、共通の趣味である世界各地への旅行、スキーやゴルフを楽しんだ。

 そんな中で、林さんにはいつも気にかかっていることがあった。初めてのニューヨークで、教会に通う一世や二世の日系人から世話になりながらも、恩返しが出来ないまま、その方たちが亡くなってしまったことだ。89年に胃がん摘出手術で命を取りとめた時には、退職後は何か人の手伝いが出来たら、と考え始めたという。

 移住後、バンクーバー日系人合同教会へ通い始め、ここで世話を必要としている80歳代や90歳代の一世に出会った。「その頃読み始めたカナダ日系の歴史の本やいろいろな方の話から、カナダの人たちはアメリカの日系よりも大変だったことがわかりました」。林さんご夫妻は、当時パウエル・ストリートにあった『さくら荘』や『クーパー・プレース』に入居していた日系のお年寄りの方たちに、食事を作って持って行ったり、医者や買い物に連れて行ってあげるようになった。

募金活動から参加
 同じ頃、日系プレースという日系の集いの場、高齢者の集合住宅建設プロジェクトの話を聞いた。「ロバート番野とゴードン門田から、日系ヘリテージセンター建設資金の募金活動に参加してもらえないかとの要望があったんです」

 快く引き受けた林さんは、募金活動のグループ責任者の1人として参加。日本に出向いて現役時代の人脈を活かし、経団連の知り合いを訪ねたり、関西の財界や70年の大阪万博基金を紹介してもらった。更に当地ではバンクーバー貿易懇話会各社からも協力を得た。大勢のボランティアがそれぞれのコネを生かして積極的に募金活動を行なった結果、多くの個人、日本やカナダの企業が募金に協力した。

 募金委員会はBC州や連邦政府にも申請を出し、補助金が認められた。資金が集まり始めたことから、ヘリテージセンター・プロジェクトの現実化に見通しがつき、日系プレースの他の施設の建設計画、資金調達・募金活動も順調に推進され、98年に新さくら荘、00年にヘリテージセンター・博物館、02年に日系ホームが完成した。

 もともとは、88年にカナダ政府による日系カナダ人に対する謝罪、補償金交付の実施がきっかけで、土地購入から始まったプロジェクトだった。「その当時からボランティアとして活動していた人はたくさんいたんです。だから私はそこに入れていただいて、乗組員の一人として船を動かしただけというのが、正しい表現でしょうね」と林さん。

健康で快適な生活を送るために
 独立して生活出来る人を対象とした新さくら荘と、ケア付き住宅である日系ホームに加え「今後は24時間完全介護体制の施設が出来れば最高です」と林さんの夢は続く一方で、ヘリテージセンター・博物館では、日系文化の保存や展示、シニアのためのプログラム運営などにも資金が必要となる。「将来いろいろな事が起こった時に対応できるようにと『財団法人・日系プレース基金』が発足した。

 現在、バンクーバー地区に在住する日系人、日本人は、学生、ワーキングホリデーの青年を含め4万を越すと推定されている。更に日本からの旅行者は年間10数万人以上いる。ところが、かつては5、6人いた日本語の出来る医者も、今では2人くらいとなった。それで在住邦人、日本語を話す日系人や短期滞在の日本人が、快適で健康的な生活が出来るような体制を作ろうということで、医療専門家や看護士、ボランティアの人たちが集まり設立されたのが、林さんが発起人の1人である『日加ヘルスケア協会』だ。今後、カナダの医療システムの紹介や、健康に関する講習会などを行っていく予定だという。

  *   *   *

 好きなゴルフからも遠ざかり、会議への出席や資料作り、高齢者のお世話など、恵美子夫人の協力を得ながら、日系社会へのボランティア活動に忙しい毎日。『外務大臣表彰』受賞の伝達を受けた際には、正直言って躊躇したという林さん。「今回の受賞は皆さんと一緒にいただいた、というのが、率直な気持ちです」と強調した。


(取材 ルイーズ阿久沢)

 

林光夫さん プロフィール
長野県飯田市出身。1958年(昭和33)年、中央大学経済学部卒業。日本鋼管(当時)ニューヨーク事務所に中途入社後、NKK本社へ移動。ニューヨークに14年(2回)、バンクーバーに11年(2回)勤務。93年カナダへ退職移住。現在、日系プレース基金理事、ナショナル日系博物館・ヘリテージセンター理事(元理事長)。日加ヘルスケア協会副理事長。BC日加協会理事、バンクーバー日系人合同教会役員会議長。バンクーバー白門会名誉会長。日系シニアズ・ヘルスケア住宅協会元理事。グレーター・バンクーバー日系カナダ市民協会元理事。恵美子夫人と共にバンクーバー在住。