SPECIAL 2007

2007年9月6日 第36号 掲載


『自分だけの秘密基地を作りたい』
建築デザインアーティスト 
坂口恭平さんインタビュー


講演中の坂口さん。英語での2時間の講演でも、熱く訴えるものがあった

『ナイロビ・ジャーナル』の作品。
“Kibera Bicycle”

Centre Aで。左から、CentreAキュレーター原万希子さん、坂口恭平さん、CentreA代表ハンク・ブルさん

 今年1月、バンクーバー美術館で個展『0円ハウス』を開いた坂口恭平さんが、この夏バンクーバーを訪れた。個展の後も、『新0円ハウス』、『ナイロビ・ジャーナル』、『4Dガーデン』など次々と作品を制作、発表している。

 6月27日、Centre Aでの講演の準備をしている坂口さんを訪ねた。



『新0円ハウス』と鈴木さん 

『新0円ハウス』〜鈴木さんとの出会い〜
 きっかけは『0円ハウス』を見たロシア人アーティストを0円ハウスが建ち並ぶ川沿いに案内している時だった。

 「いつも歩いていた隅田川以外のところを歩いていた時ですよ。突然ギョウザのにおいがしてきたんです。見たら玄関先で料理をしていて(笑)。それがすっごい安定した感じのにおいで。家庭風というか」と鈴木さんに初めて出会った時のことを話した。

 「すごくほのぼのしていて、愉快な仲間たちの楽しい生活みたいで」。興味津々だった。特に家の造り。自分が以前0円ハウスを制作したこと、家の造りに興味があることなどを話すと、家に招き入れてくれた。

 「それがすごいんです。その空間感覚というのがとにかくすごい。コンパクトだけど、住空間に必要なものがすべて実用的に揃っている。さらにすごいのは、その暮らしぶり。生活のサイクルがまさしくエコ生活になっているんです。近くのガソリンスタンドでいらなくなったバッテリーをもらって電気を作って、空になったバッテリーはひとつ50円で売って、とかね。月収が6万もあるんですよ。一度、そのサイクルを一緒に体験したんですけどね。おもしろいです」

 この鈴木さんの家を徹底的に掘り下げて、文と解説図で仕上げようと制作中なのが『新0円ハウス』。各新聞社などに営業して、朝日新聞が興味を示した。週刊誌『アエラ』に6ページを寄稿。そこから『新0円ハウス』が動きだした。今は執筆活動に忙しい。

 「こういう生活を東京のど真ん中でやっているというのがすごいでしょ。ある意味近未来的で」と、目を輝かせる。「ぼくは人を枠でくくりたくないんです。とりあえず『0円ハウス』という形で本は建物でくくりましたけど。これは、希望を込めて名前を付けた感じです。『家こそ0円でしょ!!』みたいなね」。口調が一段と熱くなった。

『0円ハウス』こそが建築
 「小学校の時から、建物が立体的に見えるような図を描いたり、机を家に見立ててそこで生活してみたりということをやってました。今思えば小さい時から『0円ハウス』体験をしていたんですね」と笑う。「そしたら『父親にそういうのを建築家っていうんだよ』って教えられたんです」。そこから建築家を目指した。

 しかし、大学の建築学科に入学して勉強を始めてみると、自分が思い描いていたものとはずいぶん違うことに気づいた。

 「人から注文されて、自分が住まない家を造るなんてと思いました。そんなの建築じゃないと。今考えるとかなり純粋ですよね」

 大学時代は、東京のさまざまな場所を見つけて自分で住むということをビデオに収めて課題として提出した。『移住ライダー』のビデオも大学の作品。卒業論文は『0円ハウス』の原形だった。

 「建築とは自分にとって心地良い空間を作ることではないのかと考えている時だったんですよ」。そうして多摩川のほとりで『0円ハウス』に出会った。

 「その人は4畳半くらいの家に住んで、畑も作ってて、自給自足で20年近くもそこに住んでいました」。自分が思うものがこれだった。

 「自由に自分で家を造れて組み立て可能で、電気も含めて自給自足ができるような住宅がないか研究していたくらいだったんです。その頃は、一般の建築というものにはあまりにもリアリティがなさ過ぎて」。『0円ハウス』こそが自分にとって建築だった。

ナイロビ・ジャーナル 
〜ケニアでの創作活動〜

 World Social Forumへの作品出展のため、2007年1月ケニアの首都ナイロビへ飛んだ。『0円ハウス』を見たというインド人のタシャーさんからの依頼だった。WSF開始1カ月前。「ぜひ一緒に作りたいからって連絡があって。1カ月前ですよ。『おいおい。ナイロビでしょ?!』みたいな感じでしたよ(笑)」

 現地についてから制作開始。作品は段ボールやくず鉄などを組み合わせて自転車に家のようなものを造る。

 しかし、「ケニアにはごみがないんですよ(笑)。道にゴミを捨ててもすぐ誰かが持って行ってしまうんです。嘘だと思って飲んだ後の缶を捨ててみたら・・・(笑)。結局、誰がどう見ても『ゴミ』のようなものをお金を出して買わなければいけなかったんですよ」と嘘のような本当の話を笑いながら話してくれる。「とりあえず鉄くずなどの材料を買って鉄工所に持っていって、『自転車できる?』って聞いたら『自転車買った方が安いぞ!』って言われたんです(笑)」

 こうしてできあがった作品 『Kibera Bicycle』は3日間のコンファレンスで展示された。評判は上々だったらしい。現地の新聞やテレビにも取り上げられ、ナイロビでちょっとした有名人にもなった。「次の日に町でよく声をかけられましたよ」

 ナイロビでの創作活動は想像以上に楽しいものだった。

 「アフリカ人も文化的にすごい高度な生活をしているんですよね。スワヒリ語もいわゆる文字を持たない言語でしょ。あいさつも歌みたいだし。僕も民族ごとに歌を教えてもらったんですよ。これは歌を覚えないとダメだと思って」

 片言の日本語とスワヒリ語と歌とで じ合うことができる。毎日のようにナイロビで知り合った友達とレストランに出かけた。「僕なんてそこで阿波踊りとか踊ってたんですよ。そしたら教えてくれって並んでるんですよ。もう感極まってけっこう涙流しましたよ、アフリカでは。けっこうやっていけるかなって思いましたね(笑)」。

自分だけの秘密基地を目指して
 小さい時から建築家を目指していたが、ほんとは建築家が何かということはわかっていなかった。「自分の中ではただ秘密基地を作りたいだけだったんですよ」。声のトーンがまた熱くなった。

 高校の時、建築家という人にはどんな人がいるのか調べてみたらほとんどみんなつまらなかった。ただ、一人だけ気に入った人がいた。建築家で早稲田大学理工学部建築学科の石山修武教授だった。『幻庵』という彼の作品を写真で見てこの人に会いに行こうと早稲田に入学した。

 「入学してすぐ会いに行きましたよ。全部髪も剃って。『お願いします』って。最初は『ふざけるな』とか言われましたけどね(笑)。でもそれからは誉めてもらいましたよ。『空間について描け』とか言われた時に、両親が喧嘩している様子の相関図なんかを細かく描いて出したんですよ。そしたら絶賛されて。自分が一番冒険的なことをやった時に、出る釘を叩かなかったんですよ。僕の師匠です。この人は凄いですよ。僕へのアドバイスも、『建築学科で勉強しなければいけない人を絶対勉強するな。おまえの思っていることだけをやりなさい』って言われたんですよ。大学生ですよ。小学生じゃないんですからね。それでも、僕は普通に『はいっ!』とか言いましたからね(笑)」。『移住ハウス』も石原教授に誉められた作品だった。

 大学に入ってすぐに決めた建築家としてのやり方がある。それは自分の家を造って売ること。「自分の家を造って、それを作品にして買いたいという人に売る。そのお金を元にまた自分の家を造ってということをやりたいと思ってたんですよ。一時忘れてましたけどね。今それを思い出してきたところです。だんだん、やりたいことが幼い頃のことに近づいてきましたね」。声を弾ませる。

 「どうにかして子供の頃のあの最高に『わかったっ!』ていう瞬間を求めているんですよね。それが、回帰じゃないことを祈るんですけど。そっちに戻ることが新しいような気がしてるから。ぼやけている視界をだんだんクリアにしていくというか、むちゃむちゃぼけてるんですよ、まだそれがなんなのか。でも、あの秘密基地で戯れている時の、あの秘密基地を知りたいんですよ」

 『0円ハウス』を軸にして、バンクーバー美術館、ナイロビ、朝日新聞という無関係な不連続が作り出す予測不可能な連続性に今はぞくぞくするものを感じている。そこから生まれてくるものが何なのか本人にもまだぼんやりとしか見えていない。いつの日か、『自分が作った最高の秘密基地』の前に立ち、満足そうに、にやりと笑っている坂口恭平をこっそり見てみたいものである。

(取材 三島直美)

プロフィール : 坂口恭平さん

1978年生まれ、29歳。熊本出身。2001年早稲田大学理工学部建築学科卒業。2004年『0円ハウス』出版(リトルモア)。現在は創作活動のかたわら、執筆にも忙しい。今年はヨーロッパでの展覧会も予定されている。
公式ウェブサイト:
www.0yenhouse.com/index.html