SPECIAL 2007

2007年6月7日 第23号 掲載


ヒットにつながる素材を見抜く鋭い勘
中島力・元テレビ朝日制作局長
コスモス・セミナーで語る


出会ってきた魅力あふれる人たちについて語る中島氏


コスモス・セミナー主宰の
大河内南穂子さんと

 『夫と妻の記録』『徹子の部屋』『暴れん坊将軍』『西部警察』など、数々のヒット番組を世に送り出した人物・中島力氏。テレビ朝日の制作プロデューサーとして手腕を発揮した中島氏の経験談により、ブラウン管の向こうの世界が聴衆の目の前に迫ってきた。

 5月16日、日系ヘリテージセンターでのコスモス・セミナー主催の講演会「人生は出会いのドラマ・そして出会いはいつもミステリアス」に集まったのは90人。講演者の中島氏はテレビ朝日開局に参加し、制作局長を勤め上げ、テレビ業界で一線を退いた後も、雑誌『高齢社会ジャーナル』の創刊や書籍の刊行を通じて社会にメッセージを送ってきた。バンクーバーは、中島氏の妻で女優の白石奈緒美さんの出身地。奈緒美さんのいとこで当地在住の松田哲さんを介して講演依頼の話が進み、今回の来加となった。
           
「誰に出会ったか何に出会ったかによって決定的にその人の人生が決まる」
 講演冒頭のこのキーワードの背景には中島氏の一冊の本との出会いがあった。

 昭和5年鹿児島県・指宿で産声を上げ、第二次世界大戦中は学徒動員で知覧の飛行場作りに明け暮れながら、沖縄に向かう特攻隊を見送った少年時代。終戦を迎え、死の恐怖からは解放されるも、抱えていた価値観に混乱をきたし、生の意味を見失っていた中島青年が椎名麟三の著作『重き流れのなかに』に出会う。「お前さん、生きるとは何だと思っている、そう脅迫したのがこの本でした。私は上京して、椎名燐三に会って生きるとは何かを聞こうと思いました」。その思い一つを抱えて貨車に乗り込み、揺られること48時間。「杉並区下高井戸」のメモだけを頼りに東京の街を歩いた。道行く人のなかに雨合羽姿の男。抱えた飯盒にぶらさがる沢庵が青年の目を引いた。「この男に付いていってみよう」。何の当てもなく後をつけていくが、ほどなくして男はとある家に入る。玄関の表札には「椎名燐三」の文字が刻まれていた。世のなかにはこんな偶然がある。

 これが『ミステリアス』な出会いの始まりだった。作家志望だった中島青年は安部公房とも交流が始まり、大いに刺激を受けたが、小説で身を立てる道は険しかった。そんな中島氏を友人が推薦し、TBSへ入社。徳川夢声の『テレビ結婚式』の制作助手を務め、昭和34年には開局間もない日本教育テレビ(現・テレビ朝日)に紹介を受けて入局。以後昭和60年までテレビ界で活躍した。


『夫と妻の記録』

 中島氏が手がけ、5年続いた番組『夫と妻の記録』に登場した夫婦は、時の総理・池田勇人、本田宗一郎、東山魁夷に始まり200組を超える。「有楽町で会いましょう」など多数のヒット作を生み出した作曲家、故・吉田正も出演者の一人だった。「吉田さんはソ連国境の最前線で迫撃砲で全身十数カ所を打たれた。ソ連軍の捕虜となった抑留生活のなかで、音楽の勉強経験もないのにセメント袋に五線とおたまじゃくしを書いたら、音楽のわかる戦友が『お前なかなかやるな』とメモをした。ようやく帰国できて街を歩いていたら、聞き覚えのある曲が流れている。『この作曲家を探しています』という。吉田さんは名乗り出た。それで誕生したのが『異国の丘』」。

 そんなエピソードを持つ吉田正に「番組200回記念のレコードを作ろう」と提案され、中島氏に作詞が託された。産みの苦しみを味わいながらも「大事なことは一緒に生きること」と気付いたときに歌詞が沸いてきた。
 
風雪の愛ひとすじに  
作詞:中島力 
作・編曲:吉田正

(一番のみ掲載)
貧しいときに苦しみ分かち
命支えた ふたつの心
ああ風雪の ああ風雪の愛
ひとすじに

     
 普遍的な心の歌は、吉田メロディーによる時代の色付けがなされて全国に流れた。

『命ある限り』が巻き起こした大旋風
 歌といえば、短歌が大事な役割を担った大反響のストーリーがある。

 「『夫と妻の記録』に素晴らしい生き方をしている無名の夫婦を紹介したい」。中島氏は全国の地方紙を集めて情報を求めた。盲学校の英語教師が、病床の妻のために妻の短歌作品をまとめて歌集を自費出版し、妻の枕辺に贈ったという福岡の記事が目にとまった。「それだけでは美談にしかならない。私の目を開かせて出演交渉をさせたのは、歌集の扉にあった歌『来世あらば身健やかに夫に添わん 碧明るき空に柿照る』でした」

 その人の名は三重子さん。かつては明るく元気な小学校教師だったが、ある時期よりリウマチを患い、寝たきりの生活を強いられる。その妻を懸命に看護しながら明るく生きている夫の姿を、『命ある限り』と題したドキュメンタリーとして放映。すさまじい反響で番組は再放送に。演出部長がこの話に目をつけ、乙羽信子主演のドラマ『妻ならば吾も粧わん』ができた。

 昭和35年になって三重子さんから「ようやく念願の離婚ができました」と手紙が届いた。「愛する夫を何もできない自分の看護に縛りつけておきたくない、自由にさせたい」と願っていた三重子さんの思いがかなったというのだ。「励ましてくれた全国の人たちに、書きためた歌と日記で私の思いを伝えたい」。その思いを受け取った中島氏は歌を構成して、『妻の日の愛のかたみに\あどけなく髪亜麻色に座る人形』を出版、ベストセラーになった。その本も前作と同じスタッフでドラマ化。大映により若尾文子、船越英二主演の映画もできたうえ、昭和57年には倍賞千恵子、滝田栄の主演で再々ドラマ化。一つのストーリーはさまざまな形で全国の人々の心に届けられた。

 福岡県柳川の三重子さん宅へたびたび取材に訪れた中島氏は、看護にあたる母のキクさんとも密に交流した。東京へ帰る中島氏を見送る際に、キクさんは流行歌を使って「わたしの恋人東京へ行っちっち」と大声で歌い、みんなを笑わせた。そんなキクさんを中島氏は『妻の日の愛のかたみに』の後書きにこう書いた。

 「会うたびにユーモラスな話題で私を笑わせてきたお母さんが今年で98歳になってしまった。娘の看病に明け暮れ、悲運の中を生きてきたはずのお母さんであるのに、ただの一度も愚痴をこぼしたり苦しい顔を見せたことがない。\中略\親不孝な娘のおかげでわたしゃ200歳まではゆっくりしてもおれんばい。そう言って笑うおばあちゃんの笑顔が三重子さんの健康と同じくらい永遠であるはずはないけれど、キクさんだけは例外であってほしいと念じたのであった」

 昭和63年に息を引き取ったキクさんは105歳。たぶん最高齢の介護者であったろう、と中島さんは著書に記している。

『徹子の部屋』立ち上げ裏話
 「お前は黒柳徹子と心中するつもりか?」。テレ朝の企画スタッフ全員が反対したのは中島氏が考え出した『徹子の部屋』の企画。企画当時、同じ枠のバラエティ番組で黒柳徹子が司会を務めたが視聴率を確保できず、タレント生命すら危うい状態にあった。その黒柳徹子に続投させ、トークだけで1時間引っ張るというのだから周囲の反対も無理はなかった。「どうしたらOKするか。それには周囲を呆れさせることでした。どこも変えず同じ企画を2週目、3週目、4週目と出した。すると、そこまでがんばるならやらせてみるかとなった」。話し上手という黒柳の持ち味を生かした企画は当たり、31年経ってなおも続く長寿番組となったのである。

 講演ではこのほか、石原裕次郎、松平健、山本有三、尾崎一雄など多数の人々との出会いのエピソードが紹介された。その中島氏の人柄を端的に述べて講演を締めくくったのがコスモス・セミナー主宰の大河内南穂子(おおこうち・なおこ)さんである。「中島さんは何事にも好奇心を持たれ、ひらめきが利き、相手に突進して必ず筋を通す方とお見受けしました。すぐに親しくなって家族ぐるみの付き合いができるのはお人柄でしょう。『継続は力なり』の鑑となるような方ですね」。

 会場ではコスモス・セミナーの準備・運営に当たる人々の細やかな配慮とチームワークも講演会を引き立てていた。間もなく8年目に入る当会の活動は、内容・運営共にますます充実しているようだ。

(取材 平野香利)

コスモス・セミナー
 活躍する多方面の人々の知識や経験に学んで自分を磨き、異文化での生活を有意義に過ごすための女性の集い。ボランティア精神を重んじ、各種団体との交流やイベントの協力による社会貢献を積極的に行っている。ロングステイ専門誌『羅針』等でも活動が紹介された。主宰の大河内さんは、同会運営とBC州観光局ほかでの執筆や講演活動で多忙につき、すでに日系女性の会「すみれ会」からは離れている。
http://www.cosmos-seminar.com/


中島力(なかじま・ちから)氏プロフィール
東京都在住。1948年、安部公房の文学集団「現在の会」の編集同人となる。

1958年TBSで制作助手を務める。
翌年テレビ朝日の開局に参加。『徹子の部屋』『暴れん坊将軍』『西部警察』の企画制作にかかわる。テレビ朝日福祉文化事業団事務局長で退職。映像・出版企画会社「704プロジェクト」を設立し、現在に至る。現在、日本ペンクラブ会員。東京財団プロジェクトメンバー。

著書に『生命なりけり』『夫と妻のきずな(上・中・下)』『風雪の愛ひとすじに』『天国は今日も快晴』『風の葬列』がある。