SPECIAL 2007

2007年5月31日 第22号 掲載


私のカナダ物語
エド・サトウさんに聞く


アルバータ州・ボクスホールの農場で研修生時代の佐藤さん


2000年にアルバータ州で行われた研修生の同窓会(アルバータ州の中島ファームにて)


アルバータ州の橋口さんのグリーンハウスにて(左から3番目が佐藤さん、その右となりが順子さん。)

 本誌「読者の部屋」のエッセーでおなじみのエド・サトウさんこと佐藤総市(さとうそういち)さんに、カナダ移住37年間の話を伺った。

日本の農業の将来を考えて
 佐藤さんが愛知県下の研修所(現在の農業大学校)を卒業した1970年頃の日本の農業は、第二次産業の急成長に巻き込まれるかのように機械化、大型化による効率化が推奨され始めた頃だった。一方で減反政策や米の自由化など、農業全体としても一軒一軒の農家としても進むべき道が不透明になってきた時期でもあった。
その中で佐藤さんは新しい日本の農業形態を探ろうと海外、特に北米の大規模農業の仕組みに興味を持っていた。ちょうど海外移住事業団(現在の国際協力事業団)が「移住訓練生」という制度で、カナダの農家への移住を後押しする新しい試みを始めた頃だった。

 佐藤さんは19歳の時、政府の親善交流団・青年の船の愛知県代表として東南アジアをめぐり、インドまでの一カ月の船旅に参加した経験があった。また復帰前の沖縄を旅するなど、「いろいろなことに興味がわき、なんでも見てみたい、聞いてみたい」という若くて好奇心旺盛だった佐藤さんにとって、この移住訓練生の知らせは千載一遇のチャンスだった。

 この移住訓練生という制度は、アルバータ州で戦後苦労して農業を軌道に乗せてきた日系移民の後継者探しから話が始まったもので、当時カナダが受け入れていた一般移民とは異なり、移民ビザと移住後2年間の仕事が保証されたものだった。

 選考に受かった移住者(訓練生と呼ばれた)には、受け入れ先の農家で2年間働くことを条件に移民ビザが発給された。そして2年間の訓練後はカナダに残るのも帰国するのも本人の裁量にまかされていた。ただ先に紹介したとおり引き受け先の日系農家の視点からは、訓練生は勤勉で優秀な後継者と見られていたため、事業団としてはなるべくカナダに留まることを期待していた。佐藤さんも、事業団の職員から「面接の時には日本に帰りたいとだけは言わないでくれ」と頼まれたそうだ。結局面接は行われなかったが、佐藤さんは当初から日本に帰ってくるつもりだった。

初めての土地、アルバータで北米の大規模農業の実際に触れる

 1970年にこの制度の2回生として選ばれた訓練生は44人。北は青森から南は沖縄まで、日本各地から集まった青年が、北米での体験に胸を膨らませて羽田空港から旅立っていった。その中に佐藤さんの姿もあった。

 彼が働くことになった大熊農場はボクスホール(Vauxhall)にあった。研修所で農業と大型トラクターのことはひととおり学んできたのであるが、日本では想像すら出来ないほどの広大なアルバータの農場で、初めての実際の作業には戸惑ったという。夏にはポテト畑の潅水(スプリンクラー)の仕事を担当、現在ではほぼ自動化されたスプリンクラーだが当時は旧式のものもまだ残っていて、一カ所の散水が終わると長いパイプを一度つなぎ目ごとにはずし、次の場所に運んでまた組み立てるという作業もあった。「体力的にもきつく、若くなければ出来ない仕事でしたね。中には途中で農場を逃げ出してしまう人も少なからずいたくらいでした」とのこと。そこは持ち前の粘り強さと、自分に与えられた使命は素直に受け入れるという自然体の姿勢で、佐藤さんは2年間の農業研修をやり遂げた。

知人の紹介が縁で研修後もカナダに残る。そして結婚

 「研修後は日本に帰るつもりでいました。たまたま同時期に語学研修でアメリカに来ていた先輩からBC州の知人を紹介されたので、他の友人とシアトルで会ったついでに訪ねて行ったのが1972年のことでした」。そこで、帰化二世の知人から自分のところで働かないかと誘いを受ける。ここでも自然体の佐藤さんはその誘いを受けてガーデナーとして働くことになった。

 実は佐藤さんは1973年に日本に一時帰国、地元の知人の紹介で知り合った順子さんと翌年結婚。結婚後のカナダ生活については「2年で日本に戻ってくるから」と両方の両親に話して同意をもらった。また順子さん自身もカナダ生活は一時的なもので、人生のいい経験になるという気持ちでカナダに渡ったのだった。

造船業に転職する時も知人の紹介。運命のめぐり合わせ

 さてガーデナーは冬場には仕事が少なくなる。もともとカナダに永住するつもりではなかった佐藤さんはそろそろ帰国の時期かと考え、そのむねを鹿児島出身の友人に話したところ、今度は松本造船の仕事を紹介された。当時は主に日系人漁師に漁船を造っていた会社で、アルミ製の船体を作ることではパイオニア的な存在だった。当時は漁業も盛んだったので漁船の需要も多く、佐藤さんには多忙な日々が続いた。

 家庭では1975年に長男が誕生。離日する時には2年で帰国するつもりだった順子さんも、生活が快適であったこともありカナダで暮らし続けることを考えるようになる。その後1977年に次男、1979年には三男が誕生、佐藤家のカナダ生活は今や磐石のものとなった。「でもカナダの生活で不便なことはなかったし、特に家の中は隅々まで暖かくて日本にいるときより暮しやすいぐらいでしたから、このままカナダに腰を落ち着けることも素直に受け入れられましたね」と順子さんは語る。佐藤さんと同様、順子さんにも与えられた使命を受け入れる自然体のおおらかさが備わっていたのであろう。「ただ歳の違う3人の子供の面倒、特に学校や習い事の送り迎えは大変でしたね。主人はほとんど家にいないし、毎日が送り迎えで終わってしまったと言ってもいい時期もありましたから。でも若かったから特になんとも思わずこなしていけたんですよね」と話す順子さんの表情は、つらかったことを思い出すというよりは、当時を懐かしむようであった。

ふたたびガーデナーに。そして独立

 バンクーバーで万博が開催された1986年、この地域の都市化が一気に進む。それと反比例するように漁業は下降線をたどり、造船業も縮小の一途をたどる。10年間携わった造船業から別の漁業関係の仕事に移った佐藤さんだが、最終的に自分の古巣とも言えるガーデナーに戻る。2年ほどパイオニア・ガーデンの従業員として働いた後、1986年に独立。一国一城の主となったわけだが、安定した収入、つまり安定した顧客を獲得できるまでが大変であり、いろいろと仕事を工夫して年間を通じて収入があるように努力したと言う。たとえば庭の仕事は冬場にはほとんど需要がなくなるが、落ち葉かきや木の剪定などで仕事が途切れないようにし、「時には雪が降ったあとの1月にウェストバンクーバーのお宅に木の枝を切りに行って、とても寒い思いをしたこともありますよ」とのこと。

 その甲斐あって徐々に安定した顧客がつくようになってきた。佐藤さんが得意とするのは個人宅。「アパート、タウンハウスなどといったコマーシャルレジデンスは規模と金額が大きいメリットはありますが、細かいところまで契約で決められていて、そのとおりのものが求められます。それに比べて個人宅では、自分が心を込めてやればやっただけの結果が返ってくる手ごたえがあるし、個人的な信頼関係も築くことができるところが好きですね」と話す。それは、細かい観察眼で顧客の求めんとするところを汲むことに長けている佐藤さんの働きによるものだとも感じられた。中には「自分が死んだ後も、引き続き庭の面倒はエドにみてもらうと決めているからな」と話す顧客もあったという。

 二人とも読書が好きとのこと。順子さんはサスペンスものが、佐藤さんは若い頃から歴史ものに傾倒していたそうで、最近は司馬遼太郎の、特に対談ものが好きとのこと。彼のものの見方、歴史観にとても共感を覚えるという。
 いつでも自然体で物事を受け入れるおおらかさと、常に世のさまざまなことに目を配る好奇心。この性格が今日の佐藤さんの落ち着いたカナダ生活を作り出してきたようである。


(取材 平野直樹)