SPECIAL 2007

2007年5月17日 第20号 掲載


金襴緞子のスリッパ履いて
―同時多発テロから新米説教師誕生まで−


説教師として初めて檀家さんの皆さんの前に立つ。緊張で足が震え、あごが上がってしまっている


総本山光明寺は秋の紅葉の美しさで知られている


私が住んでいる部屋から眺めた石庭。夜のうちに少し雪が降ったようだ


長岡京市は竹の子で有名な所。光明寺の周辺も深い竹林に囲まれている

 目の前に揃えられたスリッパは赤地に金糸で菊や唐草の模様が織り込んでありました。「御説教師さま、どうぞお履きになって」と声をかけられるまで、少しボンヤリしてしまったようです。大きな寺院の暗くて長い廊下を歩きながら、私はカリフォルニアの砂漠に輝いていたあの日の朝の太陽を思い出していました。金襴緞子の派手なスリッパがパタパタと乾いた音を立てたからでしょうか。

世界貿易センターが消えた日
 カリフォルニア州のパームスプリングスで取材中だった私は、朝起きるといつものようにラップトップを起動してメールのチェックから始めました。すると、なんだか支離滅裂なメールがいくつも日本から届いているのです。

 「麻未、どこにいるの?まさかニューヨークじゃないよね?」どのメールも書き出しはほぼ同じでした。私はまるでわけがわからず、これもいつものようにテレビのスイッチを押しました。すると、世界貿易センターに飛行機が激突する映像が何度も、何度も繰り返されているのです。ニューヨークと3時間の時差があるカリフォルニアはまだ早朝でしたから、夜のニュースを見た日本の友人たちがメールをくれたというわけです。

 私は混乱したまま、ホテルのドアを開けて思わず外に出ました。目の前のプールには、もうすでにギラギラと輝いている砂漠の太陽の下で、のんびりと朝の一泳ぎを楽しんでいる人がたくさんいました。この人たちは、まだ何が自分の国で起きたのか知ってはいないのだ・・・と、気がつくと、そのことの方が私にとっては深いショックでした。

 それからの数日間の混乱はまた別の機会に詳しくお話することもあるでしょう。同時多発テロの衝撃は、アメリカやカナダの旅行ガイド本を書いて暮らしていた私にも大きな影響を及ぼしました。北米への日本からの旅行客が激減し、ただですら不振が続いていた旅行書出版業界は一挙に縮小が始まったのです。時間も経費もたっぷりかけて、実際に取材をして書くようなガイド本は、同時多発テロをきっかけに「過去のもの」になり、年間250日以上取材に明け暮れていた私は、アッという間に「ヒマな人」になってしまったのです。

尼僧だった自分をようやく思い出す

 刻々と迫ってくる出版予定日に追われ、毎日バタバタと北米中を走り回っていた私は、突然目の前に広がった「時間」に呆然としてしまいました。これからの生活の心配が一挙にのし掛かって来たばかりでなく、「いったい私は何なのだ?」という、私らしくもない哲学的(?)な疑問まで湧き上がる始末。この時の私のうろたえぶりは、今も友達の間での笑い話になるくらいです。

 そんなとき、京都にいる友人から「そろそろお寺においでよ」と連絡がありました。それで、ようやく自分が「何なのか」思い出したのです。実は、私は 年ほど前に出家し、一応の修行も終え、西山浄土宗という宗派の僧侶なのです。僧侶としての名前は「宮田隨麗」といいます。

 出家のきっかけは、バンクーバー新報の取材でコキットラムにある東漸寺に行ったことでした。私の家はお寺ではありませんが、大学院で比較宗教学を専攻したので、仏教には興味がありました。東漸寺でインタビューした橋本隨暢師が何を思ったのか、「宮田さん、尼僧になってみない?」と声をかけてくださったのです。その時、別に私は失恋したばかりでもなかったし、人生に悩んでいたわけでもありません。ひたすら好奇心に突き動かされ、あまり深く考えず飛びついてしまったのです。正直言って、京都で修行できるということに惹かれただけでした。ですから資格は得たものの、旅行ガイド本の仕事が忙しくなり、僧侶である自分の立場はすっかり忘れていました。師匠になって下さった橋本師も、どうやら時期を見ていたらしく、15年間「放し飼い」状態で私を見守っていてくださったのです。

本山で居候暮らし

 私が属する西山浄土宗は、法然上人を開祖とし、その高弟だった證空上人を流祖として開かれた宗派です。その総本山である光明寺は京都の長岡京にあります。深い竹林に囲まれた静かなお寺です。ちょうど本山では、ホームページを立ち上げたり、證空上人の思想辞典の編纂が始まったりと、ライターや編集の知識がある人を求めている状況でした。私は大して知識があるわけではないのですが、どうやら「役に立ちそう」と誤解(?)してくださる方々がいたわけです。とうとう私は本山の中に一つ部屋をいただき、居候生活を始めることになりました。給料などはなし。その代わり食事と住むところを提供してもらう、という文字通りの「居候」でした。旅行ライターとしての仕事は細々ながら、まだ続いていましたから、外で仕事のない日だけ本山の仕事をお手伝いすれば良いという条件は願ってもないことでした。

 私の部屋は他の修行僧たちが住む所とは遠く離れた山の上。毎晩、真っ暗な階段を懐中電灯の明かりで登って行くのはかなりドキドキの経験です。満月の夜は石庭の白砂が月の明かりでキラキラと輝き、並んでいる石や松の木などが、不思議な影を作ります。寺の周辺は竹林が続いていて、風が吹くたびにやさしげな音をたてるのにも気がつきました。京都の自然の美しさは、カナダのそれとは性質がまったく違います。四季の移り変わりが肌に吸い付くように感じられました。こうして、毎日夜が明ける前に起きて勤行に参列し、大きな声でお経を唱える暮らしにもだんだん慣れていったのです。

説教師という道が見えてきた
 僧侶といっても、教学の研究者や儀式の専門家など、仕事はさまざまな分野に分かれています。「説教師」というのもその一つです。お寺というとお葬式しか思い浮かばない人も多いかもしれませんが、どの宗教も「布教」はとても大事に考えられています。西山浄土宗は小さな宗派ですが、日本の浄土教を開いた法然上人の晩年の円熟した思想を最も純粋な形で受け継いでいると言われています。西山浄土宗に属する僧侶は全て布教をするわけですが、特に専門的に役割を担っているのが説教師です。私も自分の将来の道として、この方向を目指そうと思うようになりました。布教師養成所に入ってちょうど3年、周囲の人々の助けをめいっぱいいただきながら、今年の春、とうとう説教師の資格を得ることができました。

 この資格を得ると、本山から派遣されて全国の末寺を回り、宗派の頂点に立つ御法主(カトリックの法皇のような立場)のお言葉を伝える役目を担うことになります。御法主の名代ですから、私のような新米であろうとも、各寺院ではとても丁寧に扱ってくださいます。その象徴が金襴緞子のスリッパというわけです。

 説教師は何百人もいますから、これだけで生活が成り立つわけではありません。他の説教師さんたちは自分のお寺で住職としての役割があるわけです。では、本山の居候である私はどうすれば良いのでしょう?もちろん飢え死にはしませんし、お寺の中にいる限りはお金の使いようもありません。しかし、私の老後はどうなる?!


当分はカナダ半分、日本半分でやってみよう
 出家したのですから、世俗の欲望から切り離された・・・と、言いたいところですが、凡夫の悲しさ、そう簡単に世捨て人として暮らしていけるわけではありません。いくら本山の「癒しの空間」をありがたく思っても、「パリの旅行博の取材へ行け」とか「南アフリカでペンギンの取材」とかいう話が舞い込めば、飛んでいきたくなってしまいます。「カナダやアメリカの旅の素晴らしさを日本の人に伝えたい!」という気持ちもまだまだ強いのです。迷うたびに、おもしろそうな仕事の話が来るのは、阿弥陀さまが私を試しているのでは、と疑いたくなるほどでした。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ・・・さぞや周囲の人はあきれていたことでしょう。

 さんざん迷った末の結論は、カナダに半分、日本に半分といいとこ取りをすることでした。春の終わりから秋の初めまではカナダ、晩秋から初春にかけては日本。カナダにいる間は、旅行関係の記事をセッセと書いて日本に送ることになりそうです。秋になって日本へ戻ったら、また説教師としての仕事を続けたいので、少しずつ勉強もしていきたいと思っています。しかし、まずは長い間留守にしていた部屋の片付けです。生活空間の様子は、そこに住む人の心の中の状態を映しているそうです。だとすると、旅行関係の資料や写真、そして仏教書がゴチャゴチャと散らばっている今の部屋は、まさしく私の心の中の風景そのものです。「こんな部屋に住む人に説教されたくない!」と言われてしまいそうですね。少しずつ整理しながら、心の中も整えていけたらと願っています。


(文・写真 宮田麻未)


データ
総本山光明寺のHP: www.komyo-ji.or.jp
宮田麻未のHP:www.canadian-life.com