SPECIAL 2007

2007年5月10日 第19号 掲載


カナダ移住物語
夫の遺志を継いで移住、そして教師の道へ
亀谷節子さん


移住後に日本語教師にチャレンジした


愛車の前で亀谷節子さん

 リッチモンド教育委員会主催の日本語クラス。生徒は大人が十数名。夜間の成人クラスの受講生は、日本での仕事の予定を控えたビジネスマンが大半を占める。出てくる質問も思いのほか細かなことが多く、キツラノで受け持つ子供のクラスとは勝手が違い、それぞれの授業準備にかかる時間は膨大だ。ここで教壇に立つ亀谷節子さんは、2002年にカナダに移住。日本語教師の仕事を始めたのは移住後のことである。

留学地としてカナダを見出す
 節子さんには4人の子供がいるが、カナダとのつながりは息子の高校卒業後の留学にあった。留学地を選んだのは節子さん。地元・福岡の図書館で調べに調べ、カナダが多様な人種を尊重する国と知り、「この国ならば日本人としてのプライドを持ちながら、のびのびと過ごせる」と確信した。次男・長政さんの留学準備に当たって英会話を勉強しようと、節子さん自身も長政さんと共に英会話教室に通った。そして長政さんをカナダに送り出したのは1993年のことである。

「君は教えられる!」夫の強い勧め

 最初に節子さん自身が息子を訪ねてカナダに来た。その後家族で再びカナダを訪れたとき、ご主人の長秀さんはガンが体中に転移し、医師に「余命3カ月」と宣告を受けていた。カナダの自然の豊かさに魅了された長秀さんは「退職後はカナダに住もう」と節子さんに元気に語った。闘病中、教師をしていた長秀さんが辛かったのは生徒と離れていること。魅力的な人柄で生徒から大変慕われていた長秀さんは、病に倒れてからも始業式、終業式には欠かさず出席していた。それほど教育に情熱を傾ける夫の姿を羨ましい思いで見ていた節子さんに、長秀さんは「君は免許さえあれば勉強を教えられる。君は大学に行け」と繰り返し語っていた。

節子さんを救った短大生活
 1998年1月。「始業式に行く」と言ったその日から数日後、長秀さんはこの世を去った。4年間の闘病生活を支えてきた節子さんは、買い物にも行けないほど気持ちの沈んだ日々が続いた。自分に嫌気がさすほど無気力な状態のなか、友が差し出した一つの新聞広告が節子さんの目を惹きつけた。「福岡女子短期大学―社会人入学半額」。そのとき教職へ続く一本の道が節子さんの前に見えてきた。「そんなに夫が好きな職業なら私もやってやる!」。翌年、三男の長之さんが高校入学を迎えた同じ春、節子さんも短期大学の門をくぐっていた。

 若い学生に混じって一日中講義を受け、家に帰っても勉強漬け。寝る間もなければ悲しんでいる暇もなかった。何かに引っ張られたい一心で進んだ短大生活のなか、夢中で勉強しているうちに、夫との約束「カナダ移住」を果たす気力が芽生えてきた。しかし「ただのおばさんでは国も相手にしてくれない」と思った節子さんは、在学中に英語教師と司書の免許を取って、2001年の春に卒業した。

夫の遺志を継いでカナダへ
 思い立ったら即行動の節子さんは、短大卒業後、すぐにバンクーバーに渡った。「本当にこの地で暮らしていけるだろうか」―その確認のためだった。しかしながら、ただの下調べの気持ちだけで日々を過ごす節子さんではなかった。「わたしはこの国に何もしてきていない」と、自分から奉仕できることを探し、バンクーバー日本語学校を訪ねて、同校の図書館でボランティアを始めた。地元の人たちと触れ合ううちに当地での暮らしに息吹が吹き込まれ、移住への思いは揺るぎないものとなった。永住者となっていた次男の長政さんが書類をそろえて、呼び寄せ移民の形で永住権の申請をしたのは2001年の9月である。

 当時18才で末っ子の長之さんは「僕、行かないよ」とカナダ行きを拒んでいたため、すでに日本で自立して暮らしていた長男、長女同様に、日本で生活させようと考えていた節子さんだったが、移民局から未成年であるという理由で「子供も一緒に移住するべきである」と要請された。そこで節子さんは長之さんをカナダに連れてきて、彼にとって魅力的な場所へ次々と連れていった。そうしてカナダの魅力を伝えたことで、長之さんをカナダに行く気にさせ、節子さんと共に移住することになった。

日本語指導へのチャレンジ
 申請から7カ月を経て、永住ビザが下りた。正式な永住者となってからは、ボランティア活動で関わった日本語学校から「子供たちに日本語を教えてみてはどうか」と依頼を受けた。教えることでは、8年間そろばん教室を行っていた経験のある節子さんだが、日本語を教えることは初挑戦だった。当初、小学生と幼稚園生が対象だったため、日本語指導に当たっては日本語教育の講習を受けることに加えて、日本に帰国し、2週間、幼稚園の先生から付きっきりで教具作りを教えてもらった。

 小さな子供には日本語だけでも指導できるが、高学年になると英語抜きでは難しい。移住当初、長之さんと節子さんはカレッジでESLクラスを受講した。「その頃は、息子がテレビを見て笑っているので、『今、何て言ったの?』と聞くと『あれっ?わからないの?』という調子でした。若い人は耳がいいんでしょうね。すぐに英語が耳に入ってきたようです」。自分はまだまだと情けなく思いながらも、スクールボードのハイスクール卒業コースを次々と受講して、英語で何かを学ぶ機会を持ち続け、少しずつ英語への自信がついてきている。

学校を直接訪ね歩いて
 その後、個人でできる仕事を模索し、日本語の個人指導を行っていこうと考えた。セカンダリースクールの日本語クラスで補習の必要な生徒を紹介してもらおうと、学校に履歴書を持って訪ね、担当者と直に会って話をして回った。バンクーバー、リッチモンド、バーナビー、そしてウエストバンクーバーへ。その数は20校を超える。そこで蒔いた種がもとで学校の生徒が一人、また一人と指導を頼んでくるようになった。そしてリッチモンド教育委員会の日本語クラスの講師にと声がかかったのも、履歴書を持って自分の足で回った結果だった。「リッチモンドのスクールボードの担当者から、インストラクターの欠員が出たと連絡が来たのは、履歴書を持って回ったときから1年半も経っていました。こちらは忘れた頃にそうしたことがあるんですね」

親子で励まし合って
 現在は、リッチモンド教育委員会主催の大人対象の日本語クラス、キツラノ・コミュニティセンターでの小学生対象の日本語クラス、中高生への日本語プライベートレッスンを行っている。子供対象のクラスでは、学生時代に慣らしたバトントワリングの技術を子供たちに伝える活動も行ってきた。「ウィスラーのオリンピックのときに、バトンで応援に参加できたら」という夢もある。日本語教育のため、英語上達のため、地域への貢献にと、節子さんは息つく暇なく精力的な毎日を送っている。

 移住後の生活は、長政さんや友人の助けのもと、ひとりで暮らす住居探しから仕事探しまで、生活を軌道に乗せるまでのほとんどのことを節子さんが1人で行ってきた。そんな節子さんのことを息子の長政さんはこう語る。「移住は呼び寄せの形ではあったけれど、母は僕に頼らずカナダ暮らしを自分で切り開いてきました。今はお互い自立した大人として、カナダという土地で共に学び、励まし合う関係です。母が来てくれてうれしいのは、自分が何かしてあげられるからということでなく、母が何をしているのか身近で見られるからですね」。
夫の遺志を胸に純粋な気持ちで走り続けてきた節子さん。心のなかではいつも夫と子供たちからの力強い声援が聞こえている。


(取材 平野香利)