SPECIAL 2007
2007年3月22日 第12号 掲載
![]() 今年2月の発表会で踊りを披露する松野洋子さん |
![]() 幼少の頃の洋子さん(写真左) |
![]() 2代目・西川鯉三郎氏と共に(西川氏の左上が洋子さん) |
![]() ご主人のトムさんと共に |
今年2月18日、観客で埋めつくされたサレー・アート・センターの大講堂。舞台の上で舞う西川佳洋師範の指先が目の先の一点で止まる。きりっと光る目線もまた一点を捉える。女性的でたおやかな動きのなかにも、凛としたたたずまいのある舞い姿。舞台の最後に観客から花束を受け取り、マイクを手に謝辞を述べる姿にも粋を感じさせる西川師範こと松野洋子さん。この道60年を越す、彼女が歩んできた踊り一筋の人生をクローズアップしてみたい。
幼い頃から踊りのセンスが
岐阜県・笠松町に生まれた松野洋子さんは、踊りをたしなむ両親に手をひかれて、4歳から西川流舞踊・西川鯉子師範のもとへ稽古に通った。地元で祭りがあると、大きな山車の上で洋子さんや仲間の子どもたちは踊った。「移動する山車の上から周りを見ていると、学校の友達なんかがうらやましそうに私たちを見ていました。周りの人たちはお菓子や小銭の入ったおひねりを投げてくれましてね。祭りが終わったときには、おひねりで大きな袋がいっぱいになるほど。それを分けてもらえるのがうれしかったですね」
芸の道は厳しいというが、幼い仲間のなかには、うまく舞えないと踊りの先生に細い棒で手元をぴしゃりと叩かれる人もいたとか。筋の良かった洋子さんは荒っぽく叱られることはなかったが、師や先輩への礼の点では厳しい部分もあった。
「お稽古の後には、昼食を近くのお店でとっていたんですが、そんなときに先生より高いものを頼んだりしようものなら怒られますし、どんなときでも先生の前を横切ったりしてはいけませんでした。行き帰りの電車でも、乗り込むのは必ず先輩からと決まっていました。でも今では、先生が稽古の後で子どものお弟子さんにお菓子をあげている姿を見て、時代は変わったなと思いましたね」
すべてを踊りのために捧げる日々
洋子さんの姉たちは高校に入ると踊りをやめてしまったが、洋子さんは大きくなるにつれてますます踊りへの情熱が増していった。踊りのために習い出した三味線も、後には名取りとなった。「高校を出たら、家元・西川鯉三郎氏の内弟子に」と望んでいた洋子さんだったが、「これからの子は教育も必要」という父の考えに従って短大に進学。そして短大を卒業するやいなや念願の家元への弟子入りを果たした。とはいっても、家元から直に指導を受けられるのは月に4日だけ。日頃は家元の夫人に指導を仰いだ。洋子さんは自分の稽古だけでなく、西川三房師範のもとへ稽古に来る人々とも一緒に踊ることで朝10時から夜8時まで、文字通り踊りに明け暮れる毎日を過ごした。
「名古屋や東京・大阪にも足を運んで歌舞伎をよく見ました。春・秋には踊りの会もたくさんあったので、毎週のように観に行きましたね」。そこから一流と二流の踊りを見抜く力が養われたと洋子さんは語る。
23歳の年には師範となり、「西川佳洋」の名を授かった。名取りの発表会があるというとき、父は「娘が色気を出して踊るのは観たくない」と言い張ったが、周りの説得で会場に足を運んだ。洋子さんの舞姿を見て胸が詰まってしまったのは他ならぬ父だった。
子どもの頃からの憧れ『赤毛のアン』からカナダ永住へ
踊りの教室を始め、数名の教え子を持った洋子さんが、三十路を迎える頃、「憧れの『赤毛のアン』の世界を見たい」とバンクーバーに住む遠縁の親戚のもとを訪ねたのが、カナダへ足を踏み入れた最初のきっかけだった。だが来てみると親戚からは「女性一人で行くのはとんでもない」とプリンスエドワード島(PEI)行きを反対され、バンクーバーに止まった。そこでバンクーバー仏教会の若者の集いに足を運ぶうち、現在のご主人・日系二世の松野トムさんと親しくなった。トムさんからのプロポーズの言葉のなかにあったのは「5年以内にPEIに連れていってあげるよ」の言葉。「でも結局、PEIに連れていってもらったのは十年前だったんですよ」と洋子さんは苦笑する。
そうしてカナダでの永住を決めた洋子さんに踊りが続けられないという不安はなかったのだろうか。「父からの経済的な援助なしに踊りはできませんでしたが、その父が渡加以前に亡くなっていましたから、どちらにしても踊りはやめるつもりでした」。踊りを教えることはできても、日本では発表会に出るのにかなりの資金が必要。その額は車一台分とも言われる。
日本舞踊による地域貢献をあちこちで
1974年に挙式を行い、カナダでの生活を始めた洋子さん。彼女が踊りの師範であることを知った人から、「ぜひお稽古を」と頼まれたのが1976年、これが指導再開のきっかけだった。その後も口コミで生徒が集まってきた。その後はパウエル祭の盆踊りをリードし、ここから踊りでのコミュニティ貢献が始まった。今では、在バンクーバー日本国総領事館が主催する地域の小学生への日本紹介活動「タッチ・オブ・ジャパン」での日本舞踊と着物の紹介を始め、バンクーバー日本語学校、日系プレース、チャイナタウンや他のモール、シニアホーム等からの依頼を受けての踊りの披露などと、洋子さんはボランティア活動に忙しい。「領事館や学校で小学生に浴衣を着せてあげると、30年くらい前の子供たちは嫌がっていたのに、この頃の子供は気に入ってくれて『これ、キープしてもいい?』なんて言ってくるんですよ。『キモノ』という言葉もほとんどの子供が知っていますしね」
パートナーの支えで 伸び伸びと活動
精力的なボランティア活動を行う一方、先月の舞台のような大きな発表会もカナダで12回を数えるほど行ってきた。「いつも苦労するのはステージに飾る桜の木の準備。今年は、風で倒れた大枝があったのでそれを頂戴することができました」というご主人のトムさんは、発表会当日、照明の色彩のセッティングなどの仕事を友人と共に引き受けた。また舞台では、トムさんの歌と洋子さんの踊りの共演や2人で日英の謝辞を述べる場面もあった。洋子さんの日本文化大使としての活動はトムさんによって力強く支えられているようだ。
最後に洋子さんからの踊りへの所感を紹介したい。
「踊りを習っている人たちは、お稽古に来て、頭や体の運動をした後に、一緒にお茶やランチをするのが楽しいと言っていますね。踊りを覚えて上手になろうというより、踊りを楽しんでもらって、そのうえでボランティア活動なども行っていけたら良いのではと思います。先日、台湾出身の友人たちに発表会に出演してもらったように、今後は日本人に限らずエクササイズ感覚で踊りを楽しんでもらえるようにしていきたいですね。私自身、ある日突然踊りをやめたりするのでなく、できる限り続けていけたらと思います」
〈日本舞踊Q&A〉
西川流とは
「日本舞踊の五大流派の一つと言われる。1841年より初世西川鯉三郎が初代家元となって基礎を固め、1945年、終戦後の民衆の心をなだめるために始まった『名古屋をどり』という長期公演が毎年名古屋で行われている」
日本舞踊の体への効用は?
「いつも周りから姿勢がいいねと言われます。踊りでは腰を落とすので、足が強いですし、ボケませんね。いつも勉強でしょう?」
日本舞踊を美しく舞うコツは?
「足の動きと目線です。足は平行でなく、内向きのような形をとるのですが、その辺りがうまくできない人が多いですね」
(写真提供 松野洋子さん、取材 平野香利)
| 松野洋子さん (師範名:西川佳洋) 家元・2代目西川鯉三郎、西川三房、西川鯉子師範に師事し、1962年に師範となる。 現在はサレーの自宅で個人指導にあたる。自宅に保管する300を超す着物で教え子すべての衣装をまかなっている。 踊りの指導への問い合わせは Tel:604-584-8320 松野さんまで |