SPECIAL 2007

2007年3月1日 第9号 掲載


能楽師鵜澤久一行来加
バンクーバー能楽公演『葵上』上演


仕舞『玉の段』を舞う今村宮子さん

鵜澤光さんによる『高砂』

公演を終え舞台あいさつをする鵜澤久さん

 ブリティッシュ・コロンビア大学構内にあるフレデリック・ウッド・シアターで、2月17日能楽師鵜澤久さん一行による能楽公演『葵上』が上演された。

 満員御礼となった会場は、この日を待ちわびていたバンクーバーの能ファンで埋め尽くされ、温かい歓迎ムードと公演への期待で満ちていた。




照日の巫女(中央)が葵上にかかった怨念の原因を占っている。右に座っているのは朱雀帝の臣下

 幕がない能公演の幕開けは、今村宮子さんによる仕舞『玉之段』(仕舞…能一曲のうち、その一部分だけを紋付袴または裃で囃子なしで舞うこと)。

 続いて能『葵上』が上演された。「能は何もない舞台で始まり、何もない舞台で終わる」という鵜澤さんの言葉通り、仕舞が終わったあと舞台は一度空っぽの空間になる。地謡が登場し、囃子方が登場し、葵の上を表す装束が置かれ、観客は一気に源氏物語の世界へと引き込まれていく。

 能の特徴であるゆっくりとした動き、独特の節回し、能面の表情、美しくきらびやかな装束、舞台を作り上げているひとつひとつの洗練された要素に惹きつけられているうちに、クライマックスがやってくる。高まる六条御息所の怨念、それを跳ね返す横川小聖の祈祷、会場を震撼させるほどの鼓や笛の音、地謡の声と共に最高潮に達した怨念は手にした棒を高々と振り上げる。

 やがて再び何もなくなった舞台に向け大きな拍手が沸き起こる。観客の拍手と共に舞台の幕が下りるのだった。

 アンコールとして舞囃子『高砂』を鵜澤光さんが披露。バンクーバーの夜を彩るおめでたい雰囲気が会場を包んだ。

 全曲目を終え一行全員が舞台に登場。スタンディングオーベーションで迎える観客に鵜澤久さんは、「北米公演ツアー最初のバンクーバー公演が終わるまでは緊張が解けない状態でしたが、みなさんに能を楽しんでいただいてとてもうれしいです」とあいさつ。「みなさんの拍手を力に変えてこれからの公演を乗り切っていきたいと思います」とバンクーバー公演の大成功に感謝を込めて笑顔で応えた。

『葵上』ストーリー

 執念深い怨霊に苦しむ光源氏の正室葵上。その正体を占うよう朱雀帝の臣下に命じられた照日の巫女は、そこに破れ車に乗った激しい怒りと悲しみから肉体を抜け出してしまった六条御息所の生霊を見る。生霊は現在の自分の境遇を嘆き、葵上を打ち据え、連れ去ろうとする。そこで臣下は横川小聖を招く。数珠をこすりながら強い加持祈祷を行う小聖と六条御息所の怨霊との激しい闘いが繰り広げられる。やがて怨霊は調伏されてしまう。


現れた六条御息所の生霊。うつむいて手を目の前に近づける仕草は大きな悲しみを表現している

迫力ある六条御息所の怨念を演じる鵜澤さん

六条御息所の怨霊に挑む横川小聖。ここで物語は最高潮に達する

 

 

 

 

 

 

 



配役

前シテ…六条御息所の生霊 :鵜澤久
後シテ…六条御息所の怨霊 :鵜澤久
ツレ…照日の巫女 :長宗敦子
ワキ…横川小聖 :大日方寛
ワキツレ…朱雀帝の臣下 : 則久英志

笛…八反田智子
小鼓…住駒充彦
大鼓…白坂保行
太鼓…小寺真佐人
地謡…今村宮子、津村聡子、鵜澤光

公演が終わって

 公演終了後に行われたレセプションでは、出演者全員が多くの人に囲まれ、和やかな雰囲気の中で会話が弾んでいた。

 15日にバンクーバー入りした一行は、忙しい稽古の合間を縫ってバンクーバー観光もした。町の感想を聞いてみると、「きれいな町」という印象が多かった。

 小鼓の住駒さんは、「お客さんがお能をよく勉強していて、拍手などのタイミングがわかっているという印象でした」と感想を語る。大鼓の白坂さんや太鼓の小寺さんもうなずく。「お客さんがステージに対して空気を作っているという感じでとてもやりやすかったですね」という白坂さんの言葉が今公演の雰囲気を代弁していた。

 鵜澤光さんは、『高砂』をひとりで演じて「すごく緊張しました」と笑う。東京芸術大学邦楽科在学中に「これでいく」と決意したという。それからは楽しんで能に取り組んでいる。「今日はバンクーバーの景色などを思い出しながら舞っていました」と初めてのバンクーバーも楽しんでいたようだった。

 今公演には2004年に選ばれた女性能楽師22人の重要無形文化財総合指定保持者が2人含まれている。1人は鵜澤久さん、もう1人は今村宮子さん。今日の公演は「緊張しましたけど、みなさんの拍手で気持ちよく終えさせて頂きました」と笑顔で応えた。また隣にいた津村さんも「観客の方がすごく集中して見てくださっているのがこちらにも伝わってきました」と感想を語った。

 最後まで多くの人に囲まれていた鵜澤久さん。「とってもよかったですね。東京でやっているのと同じようにできたので。それはお客様の空気が良かったのだと思います」

 観客と一体となって舞台を作り上げていくことを理想とする鵜澤さんにとってそれは何よりうれしい反応だっただろう。「演じていて気持ちよかったです」の言葉がそれを表している。バンクーバーの印象をとてもいいところでしたというその言葉には、雰囲気も人々も含まれている。「舞台もあんなにいいものを作ってもらって、本当に最上級にうれしかったですよ。見た瞬間 "Splendid"と思わず言ってしまったほどです(笑)。たくさんの皆さんに支えてもらって本当にいい公演になりました」

 受け入れたブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)側も今公演の大成功への興奮と安堵感でいっぱいだった。UBC教授のジョシュア・モストウさんは、「無事に終わって良かったです。すばらしい公演になりました」とほっとしたようだった。鵜澤さん招致の発起人の1人でもある同大学サラリン・オルバー教授は、「すばらしかったです。涙が出ました」と少し興奮した様子。「日本語がわからない人でも、ため息が出るほどその魅力に取り憑かれていたみたいでした」

 そして今公演全てにおいて日本とバンクーバーの架け橋となった同大助教授のクリスティーナ・ラフィンさんは、「本当に良かったです」と満面の笑み。とにかく細部に至るまでこの公演成功のために尽力した彼女のこの日の安堵感は人一倍だっただろう。「見ている人の反応も良くて、最後に大きな拍手があってよかったなぁと思いました」という言葉に実感がこもっていた。

 この日の観客の半数以上はカナダ人だった。そして多くの人が「能」という日本の伝統芸能に触れ、魅力を感じ、出演者に対してそのすばらしさへの賛辞と惜しみない拍手を送った。それは芸術の魅力が言葉の壁を越えるパワーのすごさを体感した瞬間だった。

 能の魅力とはなんだろう。繊細で緻密で洗練されたひとつひとつの動きと音楽、体の中心から溢れ出る声、600年以上という長い年月をかけて培われた古えの感性が能楽師によって現代によみがえる瞬間を五感で体感できるということかもしれない。そんな日本伝統芸能のすばらしさにバンクーバーで触れることのできた2日間だった。

(取材 三島直美)

 



能楽公演『葵上』
ワークショップ開催

 


あいさつをする鵜澤久さん(中央)と通訳のクリスティーナ・ラフィンさん(右)。左奥はこの日アシスタント役を務めた鵜澤光さん

六条御息所の生霊と怨霊で身につける装束の説明

翌日の公演一場面を披露する。衣装や面は着けていないが観客はその迫力に大拍手で応えた

 バンクーバーで20年ぶりに迎える本格的な能楽公演『葵上』を翌日に控えた2月16日、本公演が行われる会場ブリティッシュ・コロンビア大学内フレデリック・ウッド・シアターで能のワークショップが開催された。

 同公演のシテ(主役)である鵜澤久さんが、能楽師であり娘でもある鵜澤光さんをアシスタントに、そして今公演の企画運営を担当したUBC助教授のクリスティーナ・ラフィンさんを通訳に、能面、装束、動作、物語、楽器、謡など能楽や曲目『葵上』についてさまざまな角度から説明した。

 約200人収容の同劇場には、多くの人が詰めかけ、訪れた人は鵜澤さんの解説ひとつひとつに熱心に耳を傾けていた。時折英語も交えながら、観客との掛け合いなど笑いも起こるほど和やかな雰囲気で、客席と一体になった楽しいワークショップとなった。

 最後の質問コーナーで、女性が能を演じることについて聞かれると、「能を演じる上での男女の差が演技の違いを与えるのではなく、私でなくてはできない演技を目指している」と、女性として自分が演じていくからこそ、個人の演技が際立つものとしての能を確立することに自分の役割が存在するという強い思いを語った。

能楽について

 ワークショップで紹介された能を楽しく鑑賞するための予備知識。

能面:古いものでは100年以上も使い継がれているほど、能にとって命ともいえるもので、大事に保管されている。面打ちの魂と役者の心が一体となって初めて面に命が吹き込まれ、表情が生まれる。


能面の説明。鵜澤さんが手にしているのは、「般若」の面


 

 

 


『葵上』で使用される面は、六条御息所の生霊を表す「泥眼」と呼ばれる面と、六条御息所の怨霊を表す「般若」の面である。どちらも白眼と歯の部分に金が施されていて、これは人間らしさを失った面に施される技法であるという。

装束
:役柄にあわせて色彩、模様、形などさまざまなものがある。以前は刺繍ものが多かったが重くなってしまうため、現在では織物を多く使用している。

舞台:特徴は客席と舞台の間に幕がないこと、本舞台と呼ばれる6メートル四方の空間と、そこから向かって左手にのびている橋掛かりという廊下、その最左端に揚幕と呼ばれる幕があるのみという至ってシンプルな設定であること。この橋掛かりはさまざまな空間をつなぐ役割を果たし、例えば家の外と中、この世とあの世、『葵上』では離れた場所をつないでいる。

動き:喜怒哀楽を最小限に表現する能では、歌舞伎のような大きな動きはあまり見られない。悲しい時には少しうつむき、うれしい時には少し上を向く、怒りを表す時は対象物を真正面に見据えるなど面の角度で感情を表す。また、地謡が感情を表現する場面も多く見られる。

楽器:笛・小鼓・大鼓・太鼓の4種類、各1人ずつ。地謡と共に、登場人物の心情や場面情景を表現し、舞を盛り上げる。


シテ
:主役のこと。能面を着ける役が多い。シテを演じる役者をシテ方という。

ワキ:脇役のこと。必ず現在生きている男役を演じる。そのため面は着けない。

ツレ:シテまたはワキに連れ立つ役のこと。

曲目『葵上』の舞台説明:登場人物は六条御息所の生霊と怨霊、照日の巫女、横川小聖、朱雀院の臣下。葵上は登場せず、舞台中央前方に置かれた装束で怨霊に取り憑かれ床に伏せている様子を表している。

(取材 三島直美)