SPECIAL 2007

2007年1月1日 第1号 掲載


私のカナダ物語
世界を飛び回った仲良し夫婦の軌跡「お互いに、輝きあえるように」
今泉周治さん・慶子さん夫妻


今泉周治さん・慶子さん夫妻
   photo by ケイコ・アイ

アブダビでシェイク・アブデユーラ王子と共に

一家揃って砂漠でキャンプ(!)

 ケリスデールで仲良く暮らし、時に気ままな旅を楽しみ、お互いを尊敬し合う“理想的なカップル”の今泉周治さん・慶子さん夫妻。元日本航空勤務で、江戸時代に遡る国際色豊かな一族をルーツに持つ周治さんと、スペイン語堪能で、現在はケイコ・アイの名で活躍するプロフォトグラファーの慶子さんは、その昔バンクーバーで出会った。さまざまな国に駐在した結婚生活のなかで、常に新しいことにチャレンジしてきた二人。そんな夫妻のドラマティックなストーリーと理想の関係を築いてきた道のりについて伺った。

17 歳で占領下日本からアメリカへ

周治さんがバンクーバーに初めて来たのは1968年。日本航空の新支店開設のためだった。当時、バンクーバーに就航していた海外の航空会社は、アメリカ便のユナイテッド航空とウエスタン航空、オーストラリア便のカンタス航空のみだった。「初めて降り立った当時の空港はまるでバラック建てのような古い施設。(支店は)これからオープンなので、建設中の新空港内でオフィスのスペースだけは決められていたものの、中には何もなく、机や椅子すらなく、タイプライターを床に置いて仕事をしました」。その様子を見た空港当局の空港長は、自室の電話や設備を貸してくれるなど、大変親切にしてくれたと言う。「まるで隣人を迎えるような扱いでした」と周治さんは振り返る。

 周治さんの海外暮らしは、これが初めてではなかった。1950年にはアメリカに留学。「当時の日本は連合軍の占領下。パスポートには『連合国最高司令官の命により留学を許可する』とありました」。当時まだ17歳。しかし敗戦下にあっても、武力では勝るアメリカをもっと知り、国際感覚を養いたいと感じていた。

 周治さんの目を海外に向けさせたのは、それだけではないようだ。勝海舟や福沢諭吉を従えて咸臨丸でアメリカへ向かった軍艦奉行木村摂津守は、周治さんの祖母の叔父。さらに遡ると、周治さんの父方の一族・桂川家は代々幕府の奥医師を務め、蘭学への関わりが深かった。4代目桂川甫周はロシアにまでその名声が知られ、7代目甫周は徳川幕府崩壊まで将軍の脈を診る傍ら、オランダ語の辞書を編纂している。

 アメリカでハイスクールを卒業後、周治さんはパサデナのカレッジに進学。外交官になりたいと考えていたところ、ロサンゼルスの総領事がアドバイスしてくれた。「当時のことですから、『外交官になるには東大を出なくては。アメリカで呑気に飯を食ってちゃいけない』と言われましてね」。予定より早く帰国した周治さんは、法律で名高い中央大学法学部に編入した。

 大学卒業後、英語を教えていた周治さん。ユニークな授業で人気を博した『今泉先生』だったが、ここでも転機が訪れる。「隣の教室の先生に『君の教え方に共鳴するものがある。今、中央大と青山学院大で教壇に立っているが、教授職を君に譲りたい』と言われたんです」。しかし周治さんはその申し出を断った。「私は英語教育を学問として学んだわけではない。それにイギリスに行けば英語は誰でも話せる。いたずらに英語を教えていてはだめだと思ったんです。ちょうどその頃日本航空がジェット化を行っており、中途採用で入社しました」

 日本航空では販売を担当していたが、語学力を買われ、英語が必要な場面ではその都度お呼びがかかった。ナット・キング・コールやビートルズ来日の際の出迎えも行ったと言う。その後、再び海外に出る機会が訪れた。1964年、海外渡航自由化に備え、対応のためローマ駐在員となりイタリアへ飛ぶ。そして次の派遣先となったのがバンクーバーだった。「会社歴のなかの、ひとつの国の経験として終わるはずだったバンクーバーでしたが・・・。慶子に出会い、子供が生まれたのがバンクーバー。ここで現在の家族が生まれたわけです。そんなバンクーバーに惹かれ、ここに戻ってきました」

バンクーバーでの出会い

 一方の慶子さんは、お茶の水女子大学で食品化学を専攻していた。「食品の香りの研究をしていました。でも卒業を控え、一生、ガスクロマトグラフィーをにらみながら研究するのはなあ・・・と(笑)。それで日本航空に入社したのですが、実は機内食の開発をやりたかったんですね。でも機内食は別会社の担当で、その仕事はなかった(笑)」

 ちょっと当てが外れたものの、日本航空の調査開発室で働き始めた慶子さん。「1年経ち、社内割引の航空券で友達とアンコール・ワットを見に行くつもりでした。でもカンボジアは戦争に。その頃、先輩がバンクーバーから帰ってきたんです。私たちは『バンクーバーも暑いでしょうね』なんて、バンコクと間違えて(笑)。当時は誰もバンクーバー観光なんて考えもしなかったんですよ」

 しかし、珍しさが逆に興味をかき立て、カナダとアメリカを旅することに。「女の子二人の旅ですから社内の人が心配して、各支店に紹介状を書いてくれたんです」。そのときバンクーバーで紹介されたのが周治さん…と思いきや、「いえ、紹介されたのは別の人でした。でも食事の後、案内してくれたのが主人。当時、支店で唯一の独身男性で、暇があるだろうということで(笑)」

 帰国した慶子さん達は、周治さんへのお礼にドライフラワーとカードを贈った。「そうしたら、なぜか私宛に返事が来たんです。友達は美人だったので、『間違えてるんじゃないの?』と思ったんですけど(笑)。それ以来、毎日手紙のやりとりをしました」。その後、出張で帰国した周治さんが慶子さんの両親を訪ね、出会いから5カ月後の70年10月に結婚した。「プロポーズもその返事も手紙でした。結局、結婚までに会ったのは2回だけ」。それから今日まで、幸せな日々を重ねてきた二人。やはり周治さんは、相手を間違えてはいなかったようだ。

メキシコから戦時下の中東へ

 バンクーバーでの新婚生活で、71年に長女かえでさんが誕生。その後、三人で日本に戻り、74年に次女かつらさんが誕生している。

76年、周治さんのメキシコ勤務が決まった。駐在先のメキシコシティは高地のうえ、スモッグもたまりやすく、環境は良くない。周治さんも、約80日間飛行機が飛ばない大規模な組合ストに逢ったり、車の当て屋とやり合ったりと、大変な経験をして家族をヒヤヒヤさせた。一方、子育て中の慶子さんは「ただのお母さんをしているわけにはいかないと(笑)」、スペイン語を習い始める。努力の結果、会話ならローカルの人と同じくらいというレベルに。82年に帰国後はスペイン語検定試験上級にパス、すぐに日本スペイン協会付属学校の講師を依頼された。

 86年、一家は再び日本を出た。今回の目的地はアラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビ。周治さんは支店長として赴任した。「平均気温が40度くらいで、45度以上になると公共機関は休み。部屋から外に出るときはまず眼鏡を外す。暑いうえに湿度が高いので曇るんです。夜間のドライブもラクダがハイウェイを横断するので、ぶつかればこちらが『安駱(駝)死』としゃれてもいられない危険がありました」

 その頃の中東情勢は揺れ動いており、仕事はもちろん暮らしにも影響を及ぼした。「駐在当初はイラン・イラク戦争終結前でしたがUAEは平穏でした。しかし民間機もターゲットになる可能性が高い。通信連絡に間違いでもあれば何が起こるか分からないと、生きた心地がしませんでした」と周治さん。そしてイラン・イラク戦争が終結。ほっとしたのも束の間、90年に湾岸戦争が始まる。「アブダビ、ドバイの日本の商社や石油企業は家族共々、我先に帰国。ほとんどの人が帰ったところで、家族を日本に帰しました」。すでに日本へのフライトはなくシンガポール経由だった。周治さんは大使と共に戦時中も現地に残り、5年9カ月の間、同地に駐在した。

 アブダビでの任務そのものも厳しいものだった。「バンクーバーでの開設とは逆に、アブダビは支店を閉める任務。現地と本社の板挟みとなり、仕事内容としてはつらい部分もありました」。92年に還暦を迎えた周治さんは、子会社への誘いを断ってリタイアの道を選んだ。

再びバンクーバーへ

 実はその頃、慶子さんとかえでさん、かつらさんはバンクーバーにいた。「子供達は英語で教育を受けてきたし、今後どうなるかわからない。それにかえでは、幼稚園の頃からUBCに行きたいと言っていて(笑)」。留学手続きを経て、慶子さんとかえでさん、かつらさんはバンクーバーに移った。その後、周治さんも退職移住というかたちでバンクーバーに。こうして一家は再び、バンクーバーに暮らすこととなった。

 カナダ生まれのかえでさんやかつらさんは独立心旺盛。親の学費援助を得ずにそれぞれUBC、SFUを卒業し、独立した。97年頃から夫婦二人と愛犬レディとの暮らしが始まる。

 周治さんはバンクーバーで、一族の歴史をたどる作業にとりかかっている。祖母の今泉みねさんは名著「なごりの夢」を著し、裁判官であった父の今泉源吉さんもまた、江戸時代から海外の文化と深く関わってきた桂川家の歴史を書物に書き残した。それは、日本の国際交流史の一端を世に伝えることであり、その功績は周治さんにも大きな影響を与えている。「父ほどの仕事は出来ませんが、それを目標にしています。古い紙切れ一枚でも、それがどの時代のものなのか調べたり。家には未整理の資料もたくさんありますから」

 一方慶子さんは、数年前からプロフォトグラファーとしての道を歩み始めた。ハードな勉強を乗り越えプロとなり、弊紙のほか日本の雑誌社からの連載依頼やウェディング、ポートレートなど多方面で活躍している。「流れていく時間の中で残しておきたい特別な瞬間をアートに切り取る仕事は大変ですが、納得のいく仕上がりになったときのクライアントの嬉しそうな顔が励みです。 人の表情には沸き立つ瞬間がある。それを残しておいてあげたい、そんな気持ちです。主人は、そんな私の仕事のスポンサー兼後押しをしてくれています」

 これからもお互いに輝きあっていたいという二人。今は時間があると海外に飛び、宿も決めない気ままな旅を楽しんでいる。これも語学力と長年の異文化経験があるからだろう。「そう考えると、今までの経験は役に立っていますね。これまでwasteした時間はないんじゃないかしら。いや、そう思わない性格なのかな?(笑)」。慶子さんの言葉に、二人のあふれる好奇心と人生をポジティブに楽しむ心意気を感じた。

(取材 宗圓由佳)