SPECIAL 2006
2006年11月16日 第47号 掲載
![]() オフィスの世界地図をバックに。「世界遺産を巡る旅もしてみたい」と語る稗田氏の目は、常に世界に向いている |
![]() 西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人」の掛け軸の前で。いつもこの言葉を胸に、様々なことに挑戦してきた |
船乗りになることを夢見て
鹿児島県出身の稗田氏は、子供の頃から大の釣り好きだった。夕方、浜辺に出てえさになるゴカイを獲り、翌朝日の出とともに竿を振りはじめることも珍しくなかった。その竿も、自ら山に入って選んだ竹から作り出すほどだった。
そして将来の夢を託し、北海道大学水産学部に入学。初代学長・クラーク氏の「少年よ、大志を抱け」の言葉に象徴される自由闊達ながら野心的である学風にあこがれ、住み慣れた鹿児島を後にした。
「世界中をまわれる船に乗りたい。そして自分の好きな魚にかかわる仕事をしたいと考えた結果です」と氏は語る。希望通りの遠洋航海学科に入ったのだが、思いもよらないことが起こった。それまで何度も乗ってきた小さな釣り船では平気だったのに、初めての遠洋航海実習で実習船に乗り込んだとたん、船酔いになってしまったのだ。結局航海中はほとんど実習が出来ないままだった。
そのこともあって船乗りへの夢はいったんあきらめ、水産経営学科に移り大学時代を過ごした。
就職は、難関と言われた製薬会社の三度にわたる面接をパスし内定通知をもらった。しかし勤務先が福島県・郡山市と知らされ「鹿児島出身でしたし、5年間も寒い北海道にいたのに、この先また雪国か・・・と思ったら考えが変わって」4月の入社日を待たずして辞表を提出してしまった。
苦労したカナダ入国
結局、学部の先輩がいた貿易会社に就職することになったのだが、その貿易会社と取引のあったバンクーバーの食品会社への出向を命じられる。1971年10月のことで、当然バンクーバーは寒いからそれなりの防寒具を持ち、羽田空港を飛び立った。途中、ハワイの日系スーパー・白木屋で販促業務を手伝うことになっていたので、最初の目的地はハワイ・オアフ島だった。
この季節とはいえ常夏のハワイ。すでに業務用品などで手荷物が10個もあった氏は、30度近いホノルル空港に厚手のコートを着たまま降り立った。当然のように税関で引っかかり、靴底まで検査されるという目にあってしまった。最初の海外でいきなり苦い経験をしたものの、販促業務は順調に運び、気をとりなおした稗田氏。次のカナダには観光ビザ、かつ片道航空券での入国になるため、親戚に会いに来たことにして切り抜けようと策を練っておいたのだが、また入国審査で別室に連行されてしまう。係官に「おじに会いに来たというが、どうして彼の苗字が『シミズ』でお前のが『ヒエダ』なんだ」と突っ込まれ、しまったと一瞬たじろぐが「養子です」と切り返したところまでは良かった。ところがその時、迎えに来ていた清水氏が別室で、この件について取調べを受けていたとは氏は知るよしもなかった。
「ミスターシミズはお前は働くために来たと言っているが、これはどういうことだ」という問い詰めには降参せざるを得ず、カナダ滞在中は就労しない、車の運転はしない、などの禁止事項が書かれた念書に署名させられ、ようやく放免となった。しかしそれでは仕事にならない。翌日からせっせと働き始めた氏のところに、移民局の係官が訪ねてきたのは二週間後のこと。彼らが同僚から、氏が働いているという証言を得るのにそう時間はかからなかった。違法就労は今も当時も強制送還となる。
わずか数週間前には盛大な見送りを受けながら飛び立った羽田空港に、氏は青ざめた顔で再び降り立った。しかし世界に出て行く絶好のチャンスをこれぐらいのことで潰すわけには行かないと、氏は心機一転、移民申請に挑戦することに。結局1年ほどかかったが、羊羹職人という職種で無事審査にパス、再びバンクーバーに向かった。
バンクーバーでの会社員時代
バンクーバーで働きはじめて3年目、オーナーが会社を売りに出す話が出た。東京の本社は買い取るための準備会社を設立、稗田氏がその担当となるのだが、やがて買収話は一転、白紙撤回となってしまった。氏は残された準備会社を、収益の出る企業にするべく孤軍奮闘した。それまでの米、味噌、しょうゆなどの輸入業のほかに、BC州の水産物の輸出を開始、地元の漁業関係者とのネットワークも築いていった。しかし本社は氏の努力をよそに撤退の決定を下す。
氏は直接本社に乗り込み、この会社の必要性を重役に説いてまわった。しかし遠く何千マイルも離れた東京のオフィスに陣取る彼らには、その熱意は通じなかった。
意を決した稗田氏は、自分の信念を貫くために人生で二度目の辞表を書いた。1979年の正月のことだ。
バンクーバーで起業、初めての試練
バンクーバーに戻った氏は水産物輸出の会社を設立、まだ誰も手をつけていなかったウニに着目、輸出の準備を始めた。
「初めてということは、全てがゼロからなんです。商品のウニを入れるケースを日本から空輸で取り寄せたり、地元の漁師はウニなんて獲ったことないですから、これも獲り方を説明しなければならなかったり、どれをとっても大変でした」。そうして出来上がった最初の商品サンプルには一個5千ドルもかかった。これを築地の市場に送り、悪くない感触を得た氏は本格的に事業を開始。築地に商品を次々と送り込んだ。「こちらのウニは日本産より大きいですよね。最初は築地が大騒ぎになったんですよ、『この巨大なウニはなんだ』って」
しかし市場で取引された値段は原価を割り込んだ。作れば作るほど膨らんだ赤字は25万ドル(当時)に達した。「夜も眠れないくらい不安になりましたよ。ちょうど上の子が2歳になったところで、これからどうやって家族を養っていこうかってね」。しかし、この事業は必ず成功するという信念を持ち、あきらめなかった氏に次第に追い風が吹き始めた。日本人の細かい質へのこだわりに対応する努力を怠らなかったことや、変動相場制に変わった為替が円高に向かったことなどで、同じ商品価格でも利益が出るようになってきたのだ。
「独立したとき、無二の親友からこう言われたんですよ。『お前の欠点は、今までに失敗したことがないことだ。その苦しみがないことが、お前をつまずかせることになるだろう』と。その失敗をここでしたわけですから、もう怖いものなんかないやと、ひたすら前に進みましたね」。
氏が夫婦仲におとらず重要だと言うほどの無二の親友とは、マックスフードジャパンのCEO・西田真(にしだまこと)氏のこと。稗田氏と同じ昭和22年生まれの西田氏は、大学時代から始めた焼鳥屋を一大チェーンに発展させ、さらに世界各国の食料品を扱う輸出入業でも成功を収めてきた。「自分と同い年の彼が成功しているんだから、この私が成功できないはずはないという意気込みもありましたね」と語る稗田氏。苦楽を共にしてきたよきライバルの存在が、どんな時も氏の心の支えになっていた。
常に努力することで、 道が開ける
「結局、運が良かったと言えますが、運は待っているだけではだめです。それをつかむ努力をしていないと、その時に間に合わないんですよ」と氏は当時を振り返りながら語る。
氏のオフィスには、同郷の著名人・西郷隆盛の座右の銘だった「敬天愛人」という掛け軸がかけられている。「鹿児島ではどこの小中学校でも見られた言葉で、私も小さい頃から慣れ親しんできたものです」とのこと。「天を敬えというのは、全てのものをふくむこの宇宙を敬えということで、そこから広く世界へ出よという意味が込められていると私は思います」
「大きな蛇」に会いに
独立したあとの失敗を経験として生かし、事業を成功に導いてきた稗田氏。これからの目標はとの問いには、次のように答えてくれた。
「いずれ中国へ行くことになると思います。具体的なことは決まっていませんが、来年で還暦を迎えることもあり、このままの人生を続けるのではなく、次のステップに進もうと考えています。大きな蛇を見なければならないのでね」
大きな蛇というのは、現在の奥様・シェリーさんに言われた言葉だ。そもそも彼女とは、リッチモンドのヤオハンを買収する話を持ちかけられた時、交渉相手のヤオハン側のコンサルタントとして出会ったのが最初だった。「私はバンクーバーという、言ってみればひとつの井戸の中で成功しただけですが、うちのものは世界を相手に事業を成功させて来た猛者です。私とはけたがちがうのですが、その彼女に『あなたは大きな蛇を見たことがないでしょう』、つまりもっとすごいものに挑戦したことがないだろうと言われたのです」
アジアから出て再びアジアに戻る、これもひとつの縁ですかねと語る稗田氏の目は、オフィスの壁一面に張られた大きな世界地図をみつめていた。
(取材 平野直樹)