SPECIAL 2006

2006年10月5日 第41号 掲載


「江戸の文化 内海桂子の世界へようこそ!」
内海桂子さん、バンクーバー公演


当日通訳を務めてくれたバンクス・アリコさんと

ひとり語り

会場で都々逸を作った方々。
壇上で師匠のてほどきを受けて発表

会場入り口から入場

力強い踊りの中にもユーモアを交えて

数え唄踊り

 "Hello, my name is Keiko Utsumi!" いきなり英語のあいさつが会場に響き渡った。「これを覚えるのが大変だったのよ」大爆笑と共に、9月23日ナショナル日系博物館・ヘリテージセンターで「桂子のひとり舞台」が幕を開けた。

 「私は生粋の江戸っ子でね」と歯切れのいい軽快な語り口で会場を爆笑の渦に包んでいく。ひとり舞台とはいっても、この日通訳を務めたバンクス・アリコさんを巻き込んでの掛け合や、会場の観客と都々逸(どどいつ)、三味線を弾きながら「数え唄」を歌った時は観客をステージに誘って一緒に数え唄踊りを踊ったりととてもにぎやか。「私は84歳でね」そんなことみじんも感じさせない冴えたしゃべりと迫力ある声量で舞台は大いに盛り上がる。
 こうして笑いっぱなしの幸せな2時間はあっという間に過ぎた。「この歳でこうしてバンクーバーで公演ができるなんて思ってもみませんでした」と最後にあいさつ。「また機会があれば来させてください」の言葉に、この日詰めかけた400人超満員の観客は、「是非また遊びに来てください」の思いを込めて、スタンディングオベーションと惜しみない拍手を贈った。

 海を越え、はるかかなた(カナダ)の地までやって来た笑いの芸術師に、体いっぱいの笑いと、心いっぱいの元気と、胸一杯の幸せをもらったバンクーバーの夜だった。


内海桂子さんインタビュー
 公演3日ほど前からバンクーバー入り。晴れ渡った秋空の下、ダウンタウンを歩いたり、街で出逢った日本人に声をかけたり、バンクーバー滞在を楽しんだ。

 今回の公演が実現した背景は、2005年東京、アンティークの個展会場でバンクーバー在住のバンクス陽子さんとの偶然の出会いがきっかけだった。そして迎えた公演当日。舞台前の楽屋で快くインタビューに応じてくれた。

バンクーバー公演について
バンクーバーは初めてですか。
 「そうですね、初めてです」

印象は。
 「あのね、今29階にいる(泊まって)んですよ。夜がきれいですねぇ。宝石が散りばめられてるみたいに。そして朝になったらいっせいに消えるんですね。それが行き届いてるなぁって感じ。まちまちじゃないんですね。夕べ寝ながら都々逸を考えて、『バンクーバー・来てみて・人が地球を築いてる』こんな感じだったかな。街はそんな感じがしますよね。この区画はこういう人が住んでいる、ここは工場街という統一感がありますね。へんな場所もありましたよ。人が地球を治めてるんだなぁって感じがしました」

バンクーバーで公演しようと思ったきっかけは。

 「いやぁ、やってみようって。去年パリに行ったのも不思議な縁でね。その時はシャンソンやってるお嬢さんを知ってて。フランスのえらい方の奥さんが通訳してくださるって。それじゃ遊びに行きましょうって。長唄の先生がシャンソンを三味線でやって。私は寄席の雰囲気をってんで太鼓持って。しゃべりをして踊りをおどって。そしたらそれがものすごくおもしろいって。ここんとこ、私の中でそんな感じがね、あってね。やってみようと。やれるもんがあったら何でもやろうと。そしたら誰かがどこかでみてくれてるんですよ」

海外で公演するのは気持ちが違いますか。

 「私は外国でやるのは初めてなんですよ。今回が。フランスの時は公演ではなかったんでね。これじゃなきゃいけないというもんではないんですよ。漫才は。今日もどうなるか分からないですよ(笑)」

見に来ているお客さんと一緒に舞台を作っていくという感じですか。

 「うん、今日は一緒に都々逸をやろうと。楽しみですね」

日本での活動。芸を伝える

今村昌平監督のところで教えてられますよね。
 「そう。毎年15組くらいでやるんですよ。ウッチャンナンチャンの時はテレビで毎月勝ち抜きの漫才大会があった。10回勝ち抜きみたいなものがね。役者で月謝を払ってたんだけど、役者じゃ食っていけないから漫才でやってご覧なさいって言って。それで10週勝ち抜いたんですよ。今はそういう番組も作ってくれない。どんどん、短くなっていく。昔は最低でも10分かそこらあったんだけど、今は3分とか5分でしょ。3分や5分で人様を笑わせる芸をやるには、30年やらないと無理なんですよ。だからそんなんでやってるからだんだん薄くなっていく。やる方も芸がなくなっていく、見ている方は笑わなきゃいけないと思って見ている。私なんかが見ていてもなんにもおもしろくない。今村昌平さんが漫才をやるというのは、昔はお芝居というのは台本と監督の言いなりに、台本通りにしゃべるのがお芝居だったけど、これからはそれではダメだからというので、漫才を教えてくださいと今村先生に頼まれて。それでやったんですよ」

教えていきたいことはありますか。

 「今はね言葉が汚いんですよ。『やれよ』とかね。いくら漫才がおかしなもんでも、人を馬鹿にしたようなもんでおかしいというのはこれは笑いじゃないですよね。言葉というのはちゃんと『位』があるんだよって言いたいですね。例えば、御膳はいただく、ご飯は食べる、飯は食うといったようにね。ちゃんと言葉には格があるでしょ。それがまぜこぜになっちゃってんの。それを教えたいですね。それから、芸人なんだからちゃんと芸をやりなさいと。あるもの(芸)は見せなさい。持ってたらやりなさいと言うんだけど。なかなかね。ちょっとでもやれるものがあったらやろうというのが芸人なんですよ」

漫才を始めたきっかけ

 もともと漫才なんてやろうと思っていなかった。「人助けだったんだよ」と当時の20円と引き替えに10歳で子守として奉公に。その後、奉公から戻って何か芸でもと始めた踊りや三味線がきっかけで、漫才の道へと進んだ。こんなに長くやるなんて思ってもいなかった。1938年(昭和13年)16 歳で漫才の初舞台を踏んで以来、約70年。84歳の今でも現役で活躍している。

漫才をやっていて楽しかったなぁと思うことはなんですか?
 「楽しいこと。好江・桂子で48年やりましたからね。他人の娘さん14歳を28歳で預かったんですから。それまでは自分のことだけみてればよかったけど、14歳の子を預かったとなるとね、ちゃちなことやってやめられちゃ嫌だしね。女同士だから、女もんの歴史もんをやったり。平家物語とか、源氏物語とか。色々やりましたよ。そして好江さんがいなくなってから、もう10 年ぐらい経ちますかね。そしたらいい加減やめちゃうでしょ。でもやめられないんですね」

その元気で健康な秘訣はなんですか。

 「元気な秘訣ってね、薬嫌いなんですよ。こうした方がいいとかああした方がいいとかよっぽどでないと聞かない。人になんか言われてすぐその気になるなんて。自分の体は自分が一番しってんですからね。医者なんてせいぜいつきあっても10年くらいでしょ。自分は生まれた時から自分とつきあってるんですから。自分が分からなくなったら終わりですよ。っていう主義なの。だから、それが長生き、健康のもとですかね(笑)。これまで芸人になって約70年、一日も休んだことないんですよ。具合が悪いから休ませてくれなんて言ったことがない」

 2年前、肺が片方しかないと診断されて入院を余儀なくされても、4週間の通院で回復。昨年12月東京駅で右手首を複雑骨折。それでも左手で書いた字がおもしろいというので、それをも芸にしてしまう。徹底して自分勝手の健康主義。それが健康の秘訣と本人が言うのだから間違いない。

これから先、どんな出会いがあるかが楽しみですね。

 「こんな風に人様がやってくださるというのがありがたいですね。今までにいろんなことでそういう巡り合わせがあるんです。そんな方が出てくださるんですよ。今回のバンクーバー公演もそうです。これからもどんな出会いがあるか、これがどう広がっていくか楽しみですよ」

************

 内海桂子師匠といえば日本漫才界が誇る至宝。にもかかわらず、舞台で見せる元気で明るくてさっぱりとした「江戸っ子」気質そのままに、インタビューにもとっても気さくに応じてくれ、楽しい話をたくさん聞かせてくれた。

 『石になっても、100まで生きてやる』と都々逸を詠ったというのに、「200歳の会に入ってくれって誘いがあったんですよ」と笑う。84歳まだまだ現役、『内海桂子の世界』はこれからますます広がりを見せていく。

(写真 ケイコ・アイ  記事 三島直美)


プロフィール
本名 安藤良子
1922年1月12日生まれ。東京都出身。
1938年漫才初出演。50年内海好江とコンビ結成。
以来漫才コンクール優勝、 芸術祭奨励賞など漫才界の各大賞を受賞。

89年紫綬褒章受章
95年勲四等宝冠賞受勲
現在社団法人漫才協会会長

協会HP:http://homepage2.nifty.com/manzaikyokai/home.htm

内海桂子さん