SPECIAL 2006

2006年7月6日 第28号 掲載


世界平和フォーラム2006
原爆被害を乗り越え、核のない社会を


ワークショップの参加者

展示パネルに見入る人々

 人々の暮らしを一瞬にして地獄に変えた原子爆弾―。6月23日〜28日にバンクーバーで行われた世界平和フォーラムでは、テーマのひとつに、原爆問題が取り上げられた。日本の被爆者はじめ複数の団体が参加し、ワークショップやイベントを開催。さまざまな視点から、核のない平和な世界の必要性が訴えられた。
              

 6月25日、UBCで行われたワークショップ「広島・長崎の悲劇」では、原水爆禁止日本協議会(原水協)の高草木博さんをモデレーターに、5人のプレゼンテーターを迎えて行われた。

子ども達を核から守るために
 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の岩佐幹三さんは、「被爆者を再びつくるな!」と訴えてきた。核廃絶や原爆被害への国家補償要求といった被団協の活動は、ノーベル平和賞候補に推薦されるなど、世界に広まっている。しかし岩佐さんは、「みなさんの受け止め方はまだ不十分なのです」と言う。

 岩佐さんは、16歳のときに広島の爆心地から1.2キロの地点で被爆。家の下敷きになった母を残して逃げざるを得ず、妹はどこで亡くなったかわからない。原爆孤児となった岩佐さんも急性症状に襲われた。奇跡的に回復したものの、その後も健康障害を起こし、現在はガンと闘いながら活動を続けている。

 しかし近年、原爆被害の風化が懸念されている。「みなさんは『こんな被害を、自分の子ども達に合わせたくない』と思うはず。それが私たちの活動の精神です。原爆被害者の苦しみを追体験し、『こんなのはごめんだ!』と思っていただきたいのです」

 被爆者たちは国とも闘い続けてきた。「私たちの苦しみは国の責任であり、国はそれを認定せよと活動してきました。現在もさまざまな地方で裁判が行われています。しかし国は被害を過小評価し、核兵器容認の立場に立っている。これは許されないことです」

 岩佐さんは、カナダも核廃絶に協力してほしいと訴える。「みなさんが被爆したらどうなるか考えて、協力していただきたい。そして核保有国を追い詰め、核廃絶を進めましょう」。最後に、岩佐さんのリードで、会場に平和の願いが響いた。「ノーモア、ヒロシマ」「ノーモア、ナガサキ」「ノーモア、ヒバクシャ」「ノーモア、ウォー」「ピース、フォーエバー」

グローバル・ヒバクシャの証言
 広島・長崎の被爆者は日本人だけではない。当時、日本にいた韓国・北朝鮮の人々も犠牲となった。韓国原爆被害者協会の郭貴勲さんもその一人だ。

「1910年に日本は韓国を併合。戦争が始まると、韓国人を日本に連れてきて軍需産業に駆り出し、ほとんど無報酬で働かせました。広島・長崎で原爆被害にあった韓国人は、推定で広島5万人、長崎2万人。被爆者全体(70万人)の 分の1は韓国人だったのです」

 日本に連行された韓国人はもともと本国での生活基盤が弱かった。そのうえ原爆被害を受けた人々は、帰国後もひどい状況に置かれた。「人々は被爆者をハンセン病だと言いました。差別と貧困にさいなまれ、(原爆症の)病院や薬もありませんでした」。日本では、約半数の被爆者が現在も生存しているが、韓国の被爆者は、すでに90%が亡くなっている。

 「日本人被爆者との根本的な違いは、韓国人被爆者は、日本政府の力によって広島・長崎に住まわされていたこと。それなのに日本政府は私たちを補償の対象とせず、国交正常化条約で「清算済み」だと責任逃れを続けてきました」

 そこで1970年以降、韓国人被爆者たちは裁判に訴える。さまざまな困難を伴いながら、被爆者手帳発行や、援護法適用を勝ち得てきた。しかし問題はまだ山積している。「手帳取得には被爆者は日本に行かねばなりませんが、高齢者や病気の重い人には不可能です。また、医療費の上限は13万円。重症者は差額を自費で賄わなければならないのです」

 韓国人被爆者たちは日本政府に対し、「日本に連れてきて、原爆被害に遭わせ、その後 年間放置してきたこと」への補償を求めている。「被爆者はどこにいても被爆者。日本人被爆者と同じ扱いをしてもらわなければならないのです」

核兵器の違法性確立のために

 日本反核法律家協会の弁護士・大久保賢一さんは、法的観点から核廃絶について意見を述べた。

 まず、核廃絶の実現は可能か否か。大久保さんは国際法規範の観点から述べる。「国際法規範の形成は、直接的には各国政府の意思によるもの。各国政府に最も効果的に影響力を行使できるのは、その国の主権者である国民です。主権者である私たちには政府を変える権限があり、核兵器廃絶も戦争阻止も、私たちの意思によって決定できる課題なのです」。さらに物理的にも核兵器は解体可能であり、核廃絶に悲観的になることはないと言う。

 一方、核兵器は、国際法上どんな評価を受けているのだろうか。1996年に国際司法裁判所が出した「勧告的意見」について、大久保さんは「端的に言えば、核兵器の威嚇と使用を直接禁止している国際法はないし、極端な例外とはいえ、核兵器の威嚇や使用が違法とは言えない場合があるとしている」と言う。「『核兵器の威嚇と使用は絶対的に国際法に違反する』と意見を述べる判事もいますが、残念ながら少数派。国際司法裁判所は、核兵器の違法性を『あるべき法』『望ましい法』としつつ、いまだ『確立された法』ではないとしています」

 しかし同時に国際司法裁判所は、「厳重かつ効果的な国際管理の下において、あらゆる点での核軍縮に導く交渉を誠実に遂行し、かつ完結させる義務」の存在を確認している。「私たちは、ここに示されている国際司法裁判所の到達点と限界を正確に認識する必要があります」

 こうしたなかで、核廃絶を求める国々や団体の共同行動の可能性が模索される。その例として、ニューアジェンダ連合、非同盟諸国、NGOなどが挙げられる。日本でも、1963年の「原爆裁判」で東京地裁が「原爆投下は国際法に違反する」との判決が出されたこともある。「法の世界においても、『核兵器の威嚇や使用は、法の根本にある正義や人道と相容れない』とする潮流は間違いなく存在します。正確な羅針盤をつくり、共同の力で、核兵器廃絶の航海を成し遂げましょう」

 ワークショップでは、さらに、米国フレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソンさんのプレゼンテーション「トルーマンの『ハンマー』広島・長崎への原爆投下」が行われた。また作家ジョイ・コガワさんは、永井隆を描いた執筆中の作品に触れながら、キリスト教徒の視点から原爆問題を語った。

ヒロシマ・ナガサキを知るために
英訳版「父と暮らせば」舞台朗読
 6月25日、ラウンドハウス・コミュニティセンターでも、広島・長崎などの原爆被害を知るイベントが行われた(主催・バンクーバー9条の会)。
 ひとつは井上ひさし原作の戯曲「父と暮らせば」英訳版(英語タイトル「The Face of Jizo」。ロジャー・パルヴァース訳)の舞台朗読。同作は、日本でもこまつ座の舞台や、宮沢りえ主演の映画で話題を集めた。
 朗読は、二人の日系俳優(ヒロ・カナガワ、マナミ・ハラ)によって行われた。
 舞台は原爆投下から3年後の広島。23歳の美津江は、勤務先の図書館を訪れた青年に惹かれる。原爆で死に、幽霊となって現れた父の竹造は、美津江の恋を応援するが、美津江はとりあわない。
 二人の俳優の生き生きとした表情やしぐさが、朗読でありながら、演劇のようなリアリティを感じさせる。コミカルな父娘の会話のなかであぶり出される、原爆の悲惨さ。そして、美津江の受けた傷の深さ。友を亡くし、そして父を亡くした美津江は、「生きているのは不自然」と感じ、自分には恋をしたり、幸せになる権利はないと主張する。クライマックスの父と娘の激しいやりとり。そこに潜む、父の娘を思う気持ちに、観客は涙を誘われた。

被爆者の記憶を受け継ぐ〜「被爆者の証言」
 舞台朗読の後には、被爆者の一人である三宅信雄さんの証言が行われた。三宅さんは16歳のとき、爆心地方面に向かう路面電車の中で被爆。「電車の天井に稲妻のような真っ青な光線が走りました。私は電車がショートしたのかと思い、飛び降りました」。続いて起こった爆風と爆音。その後、あたりは真っ暗になった。

 怪我をした母親を連れて、三宅さんは、火の手が上がった街から逃げた。「地獄のような光景でした。手首のところまで皮膚がたれ、(焼けただれて)男女の区別もわからない人々が、ゆっくり歩いていました。その後のことは思い出せません」

 その後、三宅さんは、幸いにも目立った後遺症に悩まされずにすんだ。「これは、いくつもの偶然の結果。多くの被爆者は言い尽くせない苦しみを味わってきたのです。一旦、核戦争が起これば、敵も味方もありません。人間が作り出した核を速やかに人の手で廃絶し、平和な21世紀となることを祈願しています」


証言を行う三宅信雄さん


 会場ではパネル展「原爆と人間展」も行われた。広島・長崎の原爆被害について、原爆孤児や韓国人被爆者の悲劇、アメリカの原爆傷害調査委員会が被爆者を実験動物のように扱った事実などを紹介。また、米国が行った核実験で被爆したマーシャル諸島やアメリカ兵の事例、チェルノブイリの惨状など、さまざまな観点からの展示が行われた。

(取材 宗圓由佳)


アジア地域協議会
「補償から和解へ」
「撫順(Fushun)の奇蹟」


「補償から和解へ」会場の様子

中帰連の出版物


 6月23日から28日にかけてバンクーバーで世界平和フォーラムが開催された。以下は同フォーラムでおこなわれたアジア地域協議会の全体会議から「補償から和解へ」、そしてワークショップ「撫順(Fushun)の奇蹟」の要約。

アジア地域協議会

全体会議「補償から和解へ」

ロイ・三木氏

SFU教授・詩人
カナダ政府の第二次世界大戦時の日系カナダ人に対する扱いの補償運動にたずさわった。



 日系カナダ人のカナダ政府に対する補償運動の経験を述べる。日系カナダ人の補償は、第二次世界大戦時、不当に収容され、所有物を奪取され、自国で敵と扱われた人々の人権と社会的公正のためであった。過去の不当に扱われた記憶は何十年の時を経ても消えない。補償運動は過去のトラウマを言葉にし、公的に修正することにつながる。補償とは尊厳の回復であると思う。
 我々は日系カナダ人の補償において、個人の不正を摘発せず、国民を裏切った「制度」に重点をあてた。民主主義制度が機能しなかったために日系カナダ人が不当に収容されたことを強調した。また、被害者個人の傷を強調しないことで、単純な補償にならないようにした。制度が破綻した状況下では、犯罪を犯していなくても、だれもが投獄される可能性がある。人道的なことももちろん重要だが、制度の破綻は起りうることである。
 今日、世界中で軍事化は加速の傾向にあり、それは日常となりつつある。我々は以前にも増して強く平和を求めなければならない。

Kan Jian女史
中国北京で活躍する弁護士
過去 年において中国人被害者の日本での民事訴訟にたずさわる


 日本の軍事主義者による侵略と中国の国民に対する残虐行為は周知の事実である。1995年より一部の中国人被害者が日本で日本政府と企業を訴訟し、事実の認識、謝罪、そして補償を求めている。日本より補償を求めている訴訟の内容は虐殺、無差別爆撃、強制労働、慰安婦、化学兵器と細菌兵器の放置。
 しかし日本での訴訟において我々は数々の問題に直面している。まず、日本政府の戦争責任に対する態度。たとえば証拠の焼却と隠蔽、虚言と情報の捏造、そして弁解と責任回避があげられる。また日本企業に対する訴訟では、企業側の戦時中の不法行為に対する責任と態度が問題となっている。そして時効や「国家免責」をあげる日本の裁判官の情報や責任に対する態度も訴訟を困難にする。
 長期的な平和と安定のために歴史的事実を認識し、被害者に心から謝罪し、そして損害を補償するべきだと考える。しかし日本政府や企業は被害者をよそおい、戦後おこなわれた裁判が「補償」だと認識している。このことを念頭におき、我々は努力を続けなければならない。

君島東彦氏
立命館大學教授
日本国憲法の専門家



第9条: 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。





日本国憲法の視点から補償について述べる。
 憲法第9条は日本の安全保障のためでなく、日本の軍事主義の損害を受けた東アジア諸国のためである。というのも、戦後大日本帝国憲法の改正はGHQの指導のもとおこなわれたが、実際はワシントンに設置された中国などをふくむ連合国の極東委員会が最終決定権をにぎっていた。よって日本国憲法はアジア諸国とともに作られた日本の東アジアに対する社会制約であると言える。
 日本国憲法が公布され、当初日本は国連によって安全が保証されるはずだった。しかし東アジアは冷戦にまきこまれ、日米安全保障条約のもと日本の安全はアメリカに頼る結果となった。日本に設置された米軍基地や自衛隊は第9条を違反しているのではないかという議論が最高法廷で避けられたため、これら軍事施設と第9条は共存しつづけた。
 戦争による損害の補償は人間としての尊厳の回復につながるので需要。真摯な補償の努力は日本とアジア諸国の信頼関係を築き、日本の現在と未来の安全保障につながる。また損害の補償運動は、民衆の連帯、国家に埋没しない市民社会の形成につながり、東アジア圏の現在や将来の平和に関わる。


ワークショップ「撫順(Fushun)の奇蹟」

「中国戦犯政策の歴史的・政治的背景」
荒井信一氏
駿河台大学


 1949年中華人民共和国が設立されると、翌年1950年に敗戦後中国や朝鮮で捕虜となりソ連に抑留されていた969人が中国に移管され、撫順戦犯管理所に収容された。中国外交部資料の記録によると「シベリアに残っている約2500人の日本人捕虜の中から、中国で重い罪を犯した者1000人を送り、中国で処理をおこなったらどうか」と、ソ連に提案されたことから、移管されたのは戦犯だと明示。
 中国での戦犯処理において、BC級裁判で死刑判決を受けた戦犯は149人というのは、イギリスやオランダなどの死刑判決数との比較、そして満州事変から始まる抗日戦争の長さ、中国の戦争被害の規模の大きさを考慮すれば「寛大」である。日本戦犯裁判には「重大な犯罪証拠がなければ不起訴とし、直ちに日本に送還する」という国府の戦犯処理委員会の決議と戦犯裁判条例が適用された。国民政府が公布した戦犯裁判条例は、上官の命令に従った者、職務執行の結果、政府の国策の遂行、政治的な行為のいずれについても免責の理由にならず、部下の犯罪行為を予防・阻止しなかった指導者は共犯とすると規定。そして理由はあきらかではないが、中国の陸海空軍刑法の適用は除外された。刑法を日本人戦犯に適用すれば、何万、何十万の戦犯は極刑に処されていたと考えられる。中国で「寛大」そして「迅速」に裁判が終結したのは、内戦が始まっていた事実も関連している。
 この寛大政策の最大の課題である日本に対して嫌悪と憎悪をもつ人民を説得には、「一部の軍国主義者」と一般の日本国民や兵士を区別する論理が用いられたと周恩来の回顧談に記録されている。「ねばり強い説得と教育で、我々の考え方がだんだん(人民に)浸透していったのです」と述べている。


「撫順の奇跡とはどのような奇跡なのか」
石川求氏

東京都立大学


 撫順戦犯管理所の基本方針は「戦犯の人格を最大限に尊重する」というもの。肉親が日本軍の兵士に殺された者もおり、所員はその理不尽さに憤慨したが、新たな侵略者を生み出さないため人道的に戦犯を扱った。
 1950年にシベリアから移管され収容された戦犯は、やがて自主的に学習会を開くようになったという。捕虜ではなく戦犯であることを自覚するようになり、犯した過ちを認めるようになった。1956年から始まった軍事法廷では、戦犯の大多数は起訴を免除され、起訴された者も被告自身が死罪を望んだにも関わらず、死刑は皆無であったという。
 6年間中国の撫順戦犯管理所で過ごし、1956年に中国から帰国した約1000人の元将校、兵士や憲兵によって組織「中国帰還者連絡会(以下、中帰連)」が結成された。中帰連会員は彼らが中国でおこなった戦争犯罪の事実を記述した本を次々と出版、全国各地で証言活動に取り組んだ。中帰連の元兵士たちにとって、証言は贖罪の行為である。
 撫順の奇跡とは被害者が加害者へ手をさしのべ、そして加害者自身が犯した罪を自ら認め被害者に謝罪することにある。


「受け継ぐ会の誕生から現在まで」
島田瑞穂女史

受け継ぐ会


 受け継ぐ会は2002年、中帰連の会員の高齢化による解散と同時に発足。中帰連の精神を学び、それを未来へつなげようとする、主に20代の会員によって撫順の奇跡を受け継ぐ会が結成された。全国に10の支部をもち、500人の会員に加え海外の支持者も獲得している。平和と友好のために活動している市民団体。
 受け継ぐ会の活動は元中帰連会員の証言の記録、保存、そして公表。年に数回証言集会を開催する。元兵士の加害証言を通して、戦争の反省と平和の尊さを若い世代に伝える。また毎年訪中団を結成し中国を訪れる。撫順戦犯管理所の元職員から話を聞き、中国の学生や若者と交流。
 今後も多くの市民と手を携え、過去の侵略への反省に基づいた反戦平和・国際交友を揚げて活動していく。

(取材 船橋敬子)