SPECIAL 2006

2006年3月9日 第11号 掲載


矢野アカデミーの名物先生が贈る、目からウロコのおもしろコラム
『外から見る日本語』連載5周年!


矢野修三さん


授業中の矢野先生

 2001年度より本紙で毎月1回、『外から見る日本語』と題し、我々が日頃何気なく使用している日本語文法のトリビアを綴ってきたバンクーバーの名物日本語教師・矢野修三さんの連載が、ついに60回を越えた。ネタ探しに苦労することもあるというその連載裏話や、これまでの道のりなどについて、矢野さんに語ってもらった。

私卒業生はすでに1300人を超過!

 日本語及び日本語教師養成学校の矢野アカデミーは、94年11月、バンクーバー・ガスタウンにあった友人の会社の一部を借りてスタートした。当初はプライベートレッスンが中心のカナダ人向け日本語学校であった。 「外国人に頼まれて日本語を教えてみたものの、うまく教えられない」という日本人からの声が多く聞かれたことで、後に少人数制の日本語教師養成講座も開講したのだが、これが大人気。そして1年後、教室をメトロタウンに移し、02年にはダウンタウンに独立した教室をオープン。今年で丸12年、卒業生は1300名を数え日本語教師として活躍している人も少なくない。

生徒たちは皆家族同様
 生徒とは心で付き合っている矢野さん。すべての生徒の写真を教室に張り出し、みんなで飲みに行ったり、BBQをしたり、ゴルフに行ったりとまるで全員が家族のようだ。生徒からの評判は「明るくて楽しい授業」「情に厚くて面倒見の良い先生」。そんな矢野さんの元に訪ねてくるOBも後を絶たず、「バンクーバーの父」と慕われている。トレードマークの似顔絵イラストも、教え子が描いてくれたものだ。今ではバンクーバーの顔的存在となり、教師は天職のように見受けられる矢野さんだが、実は長年勤めた会社を脱サラしての教師人生なのだ。畑違いの世界に飛び込んだのは、42歳のときだった。

42 歳で脱サラ。安定を捨て、学校へ
 昭和19年生まれの矢野さんは、早稲田大学法学部を卒業後、大手企業に営業マンとして就職。当時みんながそうであったように、朝早くから夜中近くまで働く企業戦士となった。そして間もなく結婚、一男をもうける。仕事最優先の日々を過ごし、高度成長期を駆け抜けた頃、高齢となった父と同居することに。しかし、矢野さんは仕事でほとんど自宅にいない。現状では妻ひとりに負担を掛けること、また転勤の可能性があるサラリーマン生活では単身赴任が否めないことが、家族とのあり方を見つめ直すきっかけとなり、矢野さんは20年勤めた会社を退職する決意をした。

筑波博でひらめいた日本語教師
 「日本語教師に」という選択肢は、85年の筑波万博に矢野さんが勤めていた会社が企業として参加したことに起因する。万博の会場で多くの外国人に出会い、彼らが口々に「日本語を教えて欲しい」と矢野さんに言ったのだ。「父の世話をしながら自宅で教えることもできる」とも思い、また、ちょうど日本語ブームにも重なった。さっそく日本語教師養成講座に通い、いよいよ教師デビュー。初めは長年の習性から「いいトシをした男が昼間に切符を買って電車に乗ること」に対し、周囲の視線が気になった。「どこにも属していない」ということを悟られたくなかったのである。そして矢野さんは、週2回しか乗らない電車の定期を買った。今となっては懐かしいエピソードだ。

ピザ屋で出会った一生の友はカナダ人
 新米教師となった矢野さんは、ある日、横浜駅付近のピザ店へ入った。店内は混み合っており、長テーブルの1カ所だけ席が空いた。そこへ座ってふと前を見ると、向かいの席は外国人男性。英会話も習い始めていた矢野さんは、勉強のつもりで話しかけた。すると、その男性も「脱サラの新米英語教師」だということが判明。しかも、住まいも矢野さんと近所。夫婦同士、息子同士の年齢も近い。その日を境に、ブライアンさん一家とは家族ぐるみの付き合いを続け、彼らが帰国してからも、矢野さん一家がバンクーバーへ尋ねるなど、親交が深まった。と同時に、矢野さん夫婦は環境の素晴らしいカナダへの移住に希望を見出していった。その後、バンクーバーで日本語学校を開校するために、何回か渡加してリサーチ。手ごたえを感じ、「ここで教えたい!」という気持ちが高まった。

天国の父が後押しをしてくれた移住
 しかし、実際に移民許可が下りるまでには、それから実に4年近くの歳月がかかった。移住を楽しみにしていた父は、移住許可を待たずして旅立ってしまった。だが、父が申し出てくれた同居から脱サラを決意し、教師となったからこそ、ブライアンと出会った。そして現在のバンクーバーでの日々があるのだ。「何か父が後押ししてくれたような気がする」と、矢野さんは語る。

 移住後は、ブライアンの住むデルタ地域に居を構え、息子同士が同じ学校となるように配慮した。日本語学校も無事スタート。矢野さんのユーモアたっぷり元気いっぱいの授業は波紋を呼び、あっという間に人気の学校となった。 サイモンフレーザー大学や各企業でもビジネス用日本語を教えることになり、講演などもよく頼まれ、今ではすっかり街の名士である。

外から見ると、こんなに謎がいっぱい!
 本紙に連載を始めてから丸5年。ネタの多くは長年の授業で生徒から質問されて、矢野さん自身も感心した事柄からだ。普段、我々は日本語を外から見ることはない。でも、海外に居住していると、日本語について聞かれたり、教えて欲しいと頼まれたりすることも度々あるものだ。しかし、意外に答えられないのである。 「外国人に教えるための特別な文法知識が必要」と矢野先生は言う。外国人生徒たちは、目からウロコの質問を次々と投げかけてくる。「『おいしい』と『おいしそう』と『おいしいそう』の違いは?」 「カウントアップでは、1、2、3、4(し)、5なのに、なぜカウントダウンでは、5、4(よん)、3・・となるのか?」「『おはようございます』があるのに、『こんにちはございます』は、なぜない?」などなど、我々にとってのトリビアが続々と並ぶ。

文化の違いは表現の違い
 言葉は文化の象徴でもある。雨に対し嫌悪感を持つ土壌の日本語は、「雨に降られる」「雨宿り」「小走り」など、雨を避けようとする意思の入った表現がある。しかし、カナダでは濡れることをさほど嫌うことがないため、これらの表現は理解しづらいのだ。上級レベルの学生から、質問ではなく、こんな指摘を受けたこともあった。矢野さんは「日本語には『竹やぶ焼けた』などの回文があるが、英語にはない」とコラム(10回目・2001年)に書いたのだが、学生は「英語にもPalindromeという言葉遊びがある」と主張したのだ。代表的なものは、"Madam, I'm Adam"。実際のところ、回文とPalindromeは似て非なり、近からず遠からずといったものだが、「どちらから読んでも意味が同じ」という目的は同じである。ちなみに、記者の名もPalindromeであった・・・。"I am Ai"

次なるは100回記念!
 矢野アカデミーを旅立った日本語教師予備軍たちも、着々と教壇に立つようになり、海を越えたメールで「こんな質問をされたのだけど・・・」と、矢野さんに相談してくる。それが昨今のネタとなって、本紙コラムに登場することが多い。ネタが浮かばず苦しんだこともあったが、5年間ずっと続けられたことは、矢野さんにとっても感慨深いようだ。読者の声がとても励みになり、何とか100回まで・・・、そして出版も考えているとか。

 取材のはずが、気付くと講義に摩り替わっているほど、教えることに熱心な矢野さん。他にもトリビア的マメ知識をたくさん教えていただいた。これからもそのおおらかさで、楽しい日本語教室をぜひ続けていって欲しいと思う。

(文  藍智子/写真 KAZUMI)


◆取材中に飛び出した矢野語録◆
「バンクーバーは、素敵な山の風、海の風、そして人情味豊かな風が吹く街」
「バンクーバー 冬降る雨は軟らかく 帽子が傘の代わりになる街」

矢野アカデミー 
住所: #121-970 Burrard St. Vancouver (バラードとネルソンの角)
電話: 604-451-7733
ウェブ: www.yano.bc.ca
メール: info@yano.bc.ca


矢野修三さん