SPECIAL 2006

2006年1月19日 第4号 掲載



宗教家に聞く
東漸寺住職 橋本随暢氏


東漸寺住職 橋本随暢氏

ふくよかな顔立ちの母子地蔵尊

 コキットラムに所在する大悲山東漸寺。畳の敷き詰められた本堂に阿弥陀三尊と柳谷観音像が、境内には母子地蔵尊と年の暮れに人々で賑わった釣鐘が置かれている。ここ東漸寺住職の橋本随暢氏(77歳)は、日頃、和歌山県の浄土宗西山派・極楽寺の住職を勤める方である。そのため、これまでの25年間、東漸寺で行う法要の度に日本からカナダへと足を運んできた。その数は69回にも及ぶ。日本では全国から依頼される講演活動も行う多忙ななかでの来加である。

 橋本氏とカナダとの縁は、カナダ出身の田端まさえさんにある。田端さんは戦後日本で過ごす間、橋本氏から熱心に仏の教えを聞いており、ご主人の他界後は、再び息子の住む 州カムループスで暮らしていた。その後、橋本氏は知人を介して「田端さんが高齢で体も不調である」という近況を伝え聞き「田端さんは信心深い方だから」と自身の語る法話のテープを田端さんへ贈った。そのテープがカムループスの人々に聞かれて、皆の間で評判となり、「カナダ仏教会合同の大会に橋本氏を招いてぜひ法話を」と事が運んだ。

 1977年カムループスで開かれたカナダ 州仏教信徒大会に、橋本氏は僧侶10名を含む30名を伴って訪れた。その際、縁となった田端さんのもとを訪ね、僧侶たちと共に仏壇の前でお経を読んだ。その思いがけぬ有難い施しに、田端さん(当時80歳を越す)は喜びと感激で涙を流し、橋本氏の手を握ったまま放さなかった。その田端さんの思いに応えて、橋本氏は翌年再びカナダを訪問し、各地の仏教会で法話を行ったのである。そうした行動のもとになっている「カナダで仏の教えを広めてほしい」という思いから、橋本氏は350万という大金を地元の有志に託した。それが今日存在する東漸寺建立の足がかりとなっていった(その後も橋本氏は数回、数百万単位のお金を喜捨している)。

 その後、橋本氏はカナダに寺を建てるための先導者(願主)となり、日本の知人に寄付を募り、多くの人々の志と当地の信者の方たちの奉仕によって、土地購入から9年余りの1989年、大悲山東漸寺が開かれるに至った。「人々の心に信仰の火を点したい」の一念で行動してきた橋本随暢氏。本紙では橋本氏の生い立ちから現在の心境について語っていただいた。

出家は幼少の時
 和歌山県日高郡川中村という小さな村で生まれた私は7歳の時、親戚が住職を務めるお寺に母が私を連れていくと言ったとき、私は「バスや汽車に乗れる」という喜びでついて行きました。忘れもしない昭和10年10月20日のことです。そして寺(現みなべ町の極楽寺)に着き、母は4、5日泊まった後に一人で帰ろうとしました。「僕も帰る」と言ったら母は「あんたはここで小僧になる」と言うので、私が大泣きしましたら、もう一晩母は泊まってくれたのですが、朝、目が覚めたら母の姿が見えない。泣いてばかりいる私に住職である師匠とおかみさんが「かしこい、かしこい」言うて、村では見たこともなかった大きな饅頭をくれてなだめてくれましたが、来る日も来る日も、日に一度は母のいる村の方を仰いで泣きました。

 それから1ヵ月後、早朝小学校へ登校した直後に、「川中村へ帰るから」とおかみさんに呼び出されました。私は天にも昇るうれしさで、4キロの道のりを足取り軽く、おかみさんと汽車とバスを乗り継いで帰りました。バスから飛び降りて家に帰り着くと、どこか家の空気がおかしい。親戚の人たちが集まっていて、私は促されるまま、お仏壇の前に寝ている人のところへ行き、顔に掛けてあった白い布を取ると、そこに母が冷たく横たわっていたのでした。私は嬉しさの絶頂から悲しみのどん底に突き落とされました。

 法事が済むとおかみさんに無理やりバスに乗せられ寺に帰りました。それからはまた毎日、私は厳しい師匠のもとで、朝から廊下の床ふきやお経を一緒に読んだりと仕事ばかりでした。寺の庭では、近所の子供たちが遊んでいるのに、私が遊ばせてもらったことは一度もありませんでした。「まことに哀れなる子はこの子なり」といった子ども時代でした。

師匠と私
 師匠から何か教わったことはない。師匠は「してみせるだけ」なんです。自分自身で悟れということです。こちらにとっては難しいですけどね。師匠は厳しく短気な人であったけれど、作法も身なりも良かった。私はこわくて師匠に面と向かってよう話さんかった。

 17、18 の頃、特攻隊に志願したくて、こっそり印鑑を盗もうとしたところ師匠に見つかりました。火鉢の前に座らされて「印鑑を使うとはただ事じゃないぞ。理由を言え!」と問い詰められて、私は「ここまで坊さんになるためにやってきましたが、辛くてよう続けられません。特攻隊で戦争に行かせてください」とお願いしましたが、師匠には怒られて大好きな学校に行くことを禁止されました。私が戦死することなく生きていられるのは師匠のおかげです。

師匠の後を継ぐ
 戦時中は農学校へ通い、終戦後に京都に出て西山浄土宗の総本山光明専門学校に行き、卒業して住職の資格を取りました。でもまだ京都で遊んでいたくて龍谷大学に進学して研究科(大学院)にも行かせてもらいました。私の師匠が病気になったので、昭和27年1月19日に大学に卒業論文を提出し、翌日、師匠に代わり極楽寺の住職となる式(新参式)を行いました。その翌週に結婚を予定したのですが、新参式の直後に、寺の総代の人たちから「結婚を自分らに相談しなかったから破談にしろ」と反対されました。私は「だれと結婚するも個人の自由や。そんな話聞けんわい」と息まいていたのですが、結局結婚は一年延ばすことにしました。心では「もうこんな封建的な寺におるのはいやや」と憂鬱な気持ちだったのですが、そこから「こんな封建的な村の連中をだれが変えられる!俺がやらんでだれがやる!」という気持ちに変わり、それからは寺を開放して盆踊りを開催したりと、村の青年団と一緒にいろいろやっていきました。すると地域の雰囲気ががらっと変わりましてね。

 青年団からの推薦で教育委員に押されて、檀家の人の反対を押し切って選挙運動をしたこともありました。その頃は自分自身思いあがりもありましたね。私は気が強いところがありますが、辰年生まれで辰の月の辰の日辰の刻生まれ(昭和3年4月10日)なのでそういう性分なんでしょう。

仏の教えを身を持って知る
 大学で仏の教えを学んでいた頃は、難しい言葉ばかりでよくわからなかった。昭和24 年頃初めて人の前で説法をする機会をいただきましたが、30、40歳の頃でもまだよく理解できぬままで、こちらが経験を重ねて70を過ぎてから、ようやく「その教えはこの事を言っていたのか!」とわかってきました。「生きることは気付くことなり」で、長生きさせてもらえたからわかる。今は仏の教えが一つ一つわかってくる日々に、いきいきワクワクするような気持ちですね。

 「知識は伝えられるが智慧は伝えることができない」と言われる通りで、智慧は体験からにじみ出てくるもので、伝えることができません。「言わずもがな」で黙が大事、そんな気持ちでいます。人は涙を流す人生を通して、打たれ、叩かれて本物をつかんでいくものです。

 私自身は喜寿も済んだので、「後の締めくくりをきちんとして生きていかんと」と思います。長生きは良いと言っても、ただのうのうとして、あるいは我を通して生きるのでは意味がない。人間以上の大いなるもの、それを自然と呼んでいい、そうした超越的なものに帰依して、畏敬する気持ちがないとね。

 「南無阿弥陀仏」とは自我を捨て、自分の命を無量なる存在(阿弥陀仏)にお任せするということです。今日まで私を支えてくれたものはすべて他力。そして素直にただ「南無阿弥陀仏」と唱える念仏のすごさを実感しております。私は人生で仏法に出会わせてもらったことが感謝であり、多くの人にいろいろな機会を通して仏法に目覚めていただきたい。そうした思いで「法に燃える人生」を生きてきました。


(取材 平野香利)



橋本随暢氏 略歴

1928年和歌山県生まれ。7歳で仏門へ入る。42年京都龍谷大学文学部・研究科卒業、同年和歌山県・極楽寺住職となる。64年から4年間南部川村の教育委員教育長を務める。80年カナダに日本寺建立を発願。89年東漸寺建立。