SPECIAL 2005
2005年10月20日 第43号 掲載
![]() 撮影の依頼に大阪弁できさくに応じる安藤氏 |
![]() 著書にサインをする安藤忠雄氏 |
UBCでの「2005-2006建築とデザインに関する講義シリーズ」のイベント初回を飾ったのは日本が世界に誇る建築家、安藤忠雄氏だった。「住吉の長屋」「光の教会」「水の教会」を始めとする安藤忠雄氏の建築は、世界から高い評価を受け、これまで建築界のノーベル賞と言われる「プリッカー建築賞」ほか、数多くの賞に輝いている。10月4日、UBCチャンセンターで1000人を超す聴衆に対して行われた講演では、多数の建築作品を紹介するなかで、安藤氏独自の建築思想と彼自身の仕事への姿勢が語られた。
安藤氏は建築に関する公的な教育を受けていない。そのことについて氏は「大学の建築科に進みたい気持ちを抱きながらも進学できなかったのは経済的な理由と学力の問題から」と語る。若き日の安藤氏は「それでも建築をやっていきたい」と育ての母である祖母に告げた。すると祖母は「人に迷惑をかけるな、あきらめないならやれ、後はご自由に」と言ったと氏が語ると、会場からは大きな笑いが起こった。
世界を歩き、偉大な建築家から刺激を受けた安藤氏だが、氏の建築思想にかかわる作品の一つとして、建築家の故・丹下健三氏の手による代々木・国立屋内総合競技場の写真が紹介された。現代的だが寺院のようでもあるその建築物に対して氏は「現代技術を用いながら、日本の伝統的な形態と同時に日本人の精神が十分込められていて、私は日本でも世界のなかでも20世紀を代表する建築だと思う」と所感を述べ、さらに「現代建築はインターナショナル・スタイルの名のもとに普遍的な様式を求めてきたが、カナダにはカナダの精神、日本なら日本の精神を重ねながら現代建築ができるのではないかと思う」と語った。
また「(国に)経済力が付くと、精神力は落ちていく」とし、日本では64年のオリンピック以後、精神力が落ちていっていることを憂い、現在経済的に豊かな時代に生き、これからの建築を背負う若者に向けてしっかりがんばってほしいと激励の言葉をかけた。そしてアメリカの詩人、サミュエル・ウルマンの詩句を引用し「60歳でも70歳でも目標を持っている限り青春はある。理想を無くしたときから人間は老いる」と語り、生涯挑戦し続けようとする氏の旺盛な意欲を見せた。
■自ら建築図面を持ち込んで
20代後半の頃、氏は仕事と共に自分の理想を探していた。「仕事は向こうからは来ない。自分からやっていかないといけないのです」。1969年、安藤氏は地元の大阪市役所に足を運んだ。
そこで安藤氏は「立体的な都市づくりをしませんか」と、当時は一般的でなかった、ビルの屋上を緑で一杯にする構想の建築図面を持ちこんだ。「屋上に緑のスペースを作れば、空中
メートルの楽園ができると思いました」と当時の思いを語る安藤氏。しかしそんな氏を市役所の人々は「若いもんがとんでもないことを考えて」と相手にしなかった。だが安藤氏はくじけることなく、屋上に緑だけでなく美術館等の文化施設を作る空間をデザインし、再度市役所へ提案に行った。すると市役所の人からは「安藤さん、それ以上入ってくると家宅侵入罪ですよ」と足蹴にされてしまった。
「日本は学歴社会だから(自分は)入っていけない」と、氏は大きな計画をあきらめ、小さなビルを作ることに焦点を当てていった。ここでは夫婦と子ども一人用の小さな住まいの建築に携わったときのエピソードが紹介された。その家庭には建築後、子供がたちまち増えて家を移ることになった。そこで安藤氏はこの家を自身のアトリエとして買いとり、以降増築を重ねて使用する。「私は造る側の苦しみも、使う側の苦しみも同時に引き受けようと思いました。建築家になる人には自分でお金を出す側の苦しみを認識しているかを考えてほしいと思います」と語った。
話は大阪市中央公会堂の建築の話に移った。90年前に建築されたホールを解体して建て直すよう依頼されたが、安藤氏は建物の外側は生かして、中に卵型のホールがすっぽりと入った形の建物にしたいと図面を描いた。ホールに入れば壁面すべてが湾曲した不思議な空間だ。デザインは「シェル・ストラクチャー」という安定して支えられる構造にもなっている。ホールの壁面には1200個ほどの光ファイバーを埋め込むというアイディアも抱いていた。だが「だれも私の話を聞きたくないというのです」。いつものように相手にされなかったのである。「建築家は創造性と同時に客観性が必要です」という氏だが、自分の構想が受け入れられずとも、その後も淡々と自分の構想を世に送り出してきた。
その建築の一つが「光の教会」である。これは長方形のシンプルな礼拝堂で、正面の壁全面が十字架の形に切り取られており、外から光が差して光による十字架を前に礼拝ができる。そのスリットには使用者側の要望により防寒のためのガラスが入っているが、安藤氏は「そこにガラスは要らないと今でも思っています。寒さぐらい我慢しろと思うのですが」と力説する。
そうした安藤氏の主張が全面的に通ったことの例では「水の教会」が挙げられるようだ。北海道に建てられたその教会は、礼拝堂の正面の壁は存在せず、まっすぐ礼拝堂の床面から同じ高さで、外側の四角い池へと視線が伸びていく構造である。池は木々に囲まれており、冬には周囲に雪が積もる。「日本には縁側という重要なものがあり、外でもなく内でもないあいまいな空間がある」。それを発展的に広げたデザインが水の教会となっている。使用者からは「寒すぎる」と苦情が来るが、「寒いけど美しいから我慢しろ」が安藤氏の主張である。
■過酷な条件に敢えて挑戦
神戸の六甲に27年前に建築した集合住宅は、安藤氏のチャレンジ精神を多いに反映したものだった。
急な斜面への住宅開発で、施主は山の下側の斜面を中心とした開発を指示したが、安藤氏は上側の勾配のきつい方に建設したいと主張した。傾斜約60度。上から見下ろした光景は、ロッククライミング用の斜面そのものである。「私に勇気はないのですが、『やぶれかぶれ』がありまして。周囲の人は建物が崩れてこなければいいなと言っていました。私も崩れなければいいなと思いました」。急斜面に階段状につながった住宅を建築した。当時とすれば最先端を行くモダンな住宅である。
氏が30代前半のときに取り掛かり、8年の年月をかけて完成をみた後、その施工主から隣の斜面(勾配70度)の開発への声がかかった。さすがにひるんだ安藤氏だったが、「あんたも年取りましたな」と施工主に言われ、40戸の住宅を建設。中央の最もいい場所には海の見える屋内プールも設置した。それが一段落する頃、安藤氏には隣に位置する神戸製鋼の古い社員寮が目に入ってきた。
社員寮を取り壊し新たな集合住宅を建設する計画を作成し、安藤氏は神戸製鋼の社長に持ち込んだ。社長にはとんでもないと断られたが、次に神戸製鋼の会長を相手に話をしたところ「どうせ日本の社長は4〜6年で代わるから計画しておいた方が良い」とアドバイスされた。するとその後の阪神大震災で社員寮は壊滅。「安藤さん早くやってくれ」とくだんの社長から声がかかったということだ。
■建築家としての社会貢献
そのほか安藤氏の設計した国内外の建造物がいくつかエピソードとともに紹介された後、氏と中坊公平氏のふたりで創設した「瀬戸内オリーブ基金」の活動が語られた。これは瀬戸内海の島々の緑が失われていることへの問題意識から立ち上げたもので、寄付を集め、木々を育てることを活動の中心としている。
その一例として小学校の生徒にドングリを拾わせ、集まった3万個のドングリを発芽させ、子どもたちと島の土に植えるといった活動の様子が紹介された。「地球の人口は多くなるばかりだが、世界の子どもが育つ地球の大きさは一緒。そうしたなかで建築家の人に何ができるか、地球に住む一人一人が何ができるかを考えていかないと。我々は建築を通して社会に何ができるかを皆さんと一緒に考えていきたい」
世界をフィールドとする建築家の視点と生き様がユーモラスに語られた講演に、聴衆から大きな拍手が送られた。
最後に特記すべきことは、講演の同時通訳を務めたA&Eコミュニケーションズ・安武優子氏の技術と語りの素晴らしさである。講演の最後に送られた拍手には、安藤氏の語りの持ち味を英語で十二分に伝え、英語の聞き手を満足させた安武氏の健闘ぶりに対する賛辞が含まれていたに違いない。
(取材 平野香利)