SPECIAL 2005
2005年8月18日 第34号 掲載
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![]() 「文句を言うところがないのがつらかった」と松本義明さん |
![]() 昔の労働が今になって体にこたえていると語る松本美代子さん |
この8月15日第二次大戦後60年目の終戦記念日を迎えた。戦争時代を経験した日系カナダ人にとって、カナダ政府に財産を没収され強制移動をさせられた体験は忘れ得ぬ記憶である。だが長い月日が流れ、その体験をリアルに語ることのできる人々は減っていく一方だ。
バンクーバー在住の松本義明さん(89歳)と妻の美代子さん(82歳)は、それぞれ山口県、和歌山県出身の両親がカナダへ移住後に生を受けた。1942年の日系人強制移動の際、二人はまだ知り合う前だった。当時
歳だった義明さんは、バンクーバーアイランドの北方に位置するポートアリスのパルプ工場に勤め、19歳だった美代子さんは、10歳の時に漁師だった父を亡くし、母、妹、弟と共にスティーブストンで暮らしていた。
美代子さん
戦争が始まってからは日本人家庭だけ夜8時になると電気を止められていました。そのうち巡査がやってきて、ラジオや写真機、船を持っている家は船などを没収しました。そして(政府の通告により)何日の何時には駅に集まるようにと言われて、その時持っていけたのは1人40ポンドの荷物までと決まっていました。移動は春くらいだったと思います。冬になるまでに帰って来られると聞かされてましたから、夏着だけ持って行きましてね。200マイルも離れたアルバータのサトウダイコン畑に行かされました。どこに行ってどうなるんかわからんかったから怖かったです。
義明さん
若い者では遠くオンタリオやマニトバの方へ行かされる者もいましたけど、私は家族と一緒に行けるということで、母はそれ以前に亡くなっていましたが、一緒に働いていた兄やハモンド(*今のメープルリッジ)の畑をやっていた父と共に汽車に乗りました。汽車は客車でしたが、街に着いてからその先5マイルは荷物と一緒にトラックに乗せられてどんどん田舎に行きました。
BCセキュリティコミッショナー(*日系人を監督する任を受けていた人)が自分の働く畑のオーナーになると聞いて、きっと待遇が良いだろうと人から羨ましがられていたのですが、着いたのは畑の真ん中の掘っ立て小屋でした。入ってみたら、一つだけ仕切りのある部屋で、真ん中にはストーブが一つあるだけ。電気も水道も何もない。ストーブも上部がひどく反り返っていて、たきつけた薪はすべて下に落ちていってしまうような粗末な物でした。小屋の壁は一枚張りで隙間がありました。仕方ないのでドアの隙間にはベッドカバーで隙間を埋めました。冬には壁の割れ目から雪が吹き込んできて目を覚ますと布団の上に雪が乗っていました。
水は飲み水だけ、だいぶ離れたオーナーの家に行ってバケツで汲んでくることを許されていましたが、皿洗いや洗濯は、牛や馬が水を飲みに来る近くの池で行うしかありませんでした。普通の人は不満があればBCセキュリティコミッショナーの人に言いに行くのですが、私はオーナーがコミッショナーの人だったから、文句を言うところがなかった。いとこの百姓が自分の住まいの文句を、私のオーナーへ言いに来たとき、私の住む小屋を見て「こんなところを見たら文句言われん」と言って座って泣いて、そのまま帰ってしまいました。
美代子さん
仕事はオーナーが植えたサトウダイコンが育ってきたら間引いたり、雑草を取ったり、秋には刈り取りをしていました。
義明さん
私は親子で25エーカー持たされました。
美代子さん
私のところも、ここにおったら畑の向こう端が見えないくらい広かったですわ。百姓したことなかったから、えらかったよね(大変だった)。
義明さん
刈り取りの時も、トラクターを使っていたらサトウダイコンを土からしっかり起こしてあるからいいものを、馬で起こしたものはすぐまた埋まってしまうから、土から起こして1時間も経っていたら、またいちいち引き抜かんといけん。とにかく仕事がたくさんあるから、5分でも余計に作業をしようと、陽があって辺りが見えるうちはサトウダイコンの頭を切り落とす仕事して、暗くなってからは手探りでサトウダイコンを集めていました。2年目に車を買いましたが、仕事を終えて車に乗ろうにも、辺りが真っ暗で車がどこにあるか見えなくて、あっちへ歩きこっちへ歩きしてようやく見つけるといった具合でした。
食料などはどうされていたのですか?
美代子さん
少し自分たち用の畑がもらえたので、そこで家族が食べられるだけの野菜を作っていました。
私のところはオーナーのミセスが優しかったから自分のところで飼っている牛を殺す時にはそれを売ってくれました。お金は秋の収穫の時だけもらえました。だからそのほかの時期はつけにして買いました。冷蔵庫などなかったから、保存のために肉を瓶詰めにする方法をそのミセスから教えてもらいました。
周りの人から差別的な扱いを受けることはありましたか?
義明さん
パルプ工場で働いていたときにカナダ人は50セントくれるところを日系人は25セントと決められたり、アルバータへの移動途中、カルガリーで汽車が止まったときに仲間でコーヒーを飲みに行こうとしたら、〈ジャップ、ユー・ゲット・アウト!(日本人は出て行け)〉と追い出されました。戦争中アルバータのレスブリッジに日系人は入ってはいけないと言われていましたが、戦後レスブリッジに入って良いことになったときに行ってレストランに入りましたが、そのときも〈ジャップ、ジャップ〉言うて追い出されました。
当時の体験はその後の生き方にどうつながっていきましたか?
美代子さん
あんな生活はもう二度としたくない、子どもにもあんな苦労はさせたくないと思って息子を大学に行かせました。
その松本ご夫妻のご長男は、昨年定年で長年勤めた教職を退職。親子共々リタイヤ生活に入った。
ご夫妻は日頃、共通の趣味のゲートボールとボウリングで楽しく暮らしている。美代子さんは、お子さんが小さな頃は、子どもの寝ている夜に畑に出て仕事をし、朝方子どもの起きる前に帰ってきていたという。そんな大変な時期を乗り越えて数十年―「昔はえらかった(大変だった)けど、今はのんきなもんです」と語る美代子さんと義明さんの笑顔は平和の象徴のようである。
(取材 平野香利)
| 現在、スティーブストンのガルフ・オブ・ジョージア・キャナリーの資料館(12138 4th Ave. Richmond)で第二次世界大戦前後の日系カナダ人の漁師家庭の暮らしぶりを伝える展示が開催中(10月31日まで)である。過去を知り、今を見つめる資料として多くの人に活用されることを期待したい。 |