SPECIAL 2005

2005年7月21日 第30号 掲載



仲良し3人、56年ぶりにバンクーバーで再会


白黒の写真:別れる前に撮った写真(1948年)
前列左から中堀さん、大辻さん、後列左、矢部さん

再会を喜び合う3人。
左から大辻さん、中堀さん、矢部さん

  昨年5月の中旬、バンクーバー新報にたずね人の依頼がメールで寄せられた。

「日系人の高齢者の人探しの御願い:突然、メールをする御無礼をお許し下さい。実は私の古い友人で、1947年頃にバンクーバーに帰国した日系二世の大辻ジョージ氏を探しています。生まれは1930年頃だと思います。彼は医学の勉強の為、帰国したので、きっと医者になっていると思います。1945〜数年、京都市に住んで居りました。彼らには姉が1人います。その方もバンクーバーに帰られた由、この様な個人的の御願いが可能かどうか分かりませんが、メールを送りました。失礼の段、お許し下さい。」
 名古屋市に住む矢部忠弘さんからの問い合わせに、当紙は、早速5月13日号の新聞に「たずね人」として前出の内容の記事を大きく載せた。


松永安巳さんの善意が再会を実現

 リッチモンドで和食レストラン「瀬戸寿司」を経営する松永安巳さんは、その記事を見て、電話帳を繰った。もしかしたら、大辻さんを見つけられるかもしれないと思ったからだ。松永さんは以前にも、ウェブサイトで日本に住む人がサレーの友人を探しているのを見て、電話帳で調べたことがあった。電話帳で住所と電話はわかったものの、実際に電話してみると、探していたサレーの人は、実はシアトルに移っており、また、「たずね人」本人はたまたま日本滞在中だった。労を惜しまず、根気よく探し当てた松永さんの努力の甲斐あって、晴れてふたりは日本で再会を期した。

 今回も、松永さんは電話帳で大辻ジョージさんらしき人を探し当てると、早速、電話した。50年以上も前のことで、最初は何のことだか分からなかったようだが、たずね人の記事の内容を伝えると、ようやく大辻さんは思い出した。新聞が発行された翌日、 日の午後、早くも矢部さんからバンクーバー新報にメールが入った。「大辻ジョージ氏の消息が分かりました。本日、メールで松永安巳氏より連絡があり、大辻ジョージ氏の住所、電話番号をお知らせして頂きました。早速、電話して元気な声を聞きました。本当に有り難う御座いました。是非、近い内にバンクーバーを訪問したいと思って居ります」

 こうして、松永さんの善意が仲良し3人の56年ぶりの再会実現を可能にした。


3人揃ってバンクーバー新報を訪問

 2005年7月6日、矢部さんから、バンクーバーでついに3人での再会が果たせたので、ぜひ社主に会ってお礼の気持ちを伝えたいと電話が入った。数時間後、当社を訪れた3人は、これまでの半世紀にわたるそれぞれの出来事などを交え、語ってくれた。

 バンクーバーを今回初めて訪れた矢部忠弘さんと、中堀和勇さんは1927年、京都生まれ。現在バンクーバーに住む大辻さんは、4歳下の1931年、バンクーバー生まれ。3人が初めて顔を合わせたのは、1946、7年のことだったという。当時、大学生だった中堀さんはアルバイトで京都にあった進駐軍のセントラルスクールに働いていた。英語ができた大辻さんも、セントラルスクールの図書館でアルバイトをしていた。ある時、中堀さんに誘われて、京都川原町カトリック教会に出向き、そこで、矢部さんに出会う。3人はすっかり意気投合し、それから2年あまり、お互い別々の道を歩むまで、終戦後の混乱の時ではあったが楽しい日々を過ごした。


それぞれの半世紀

矢部忠弘さん
 京都生まれの矢部さんは、終戦後は京都大学農業化学の研究員として働き始めた。1949年からは、東京の大手電子部品メーカー、松下電工に勤め、アメリカジョージア州アトランタを皮切りに、ロサンゼルスなど通算15年のアメリカ暮らし。米国関連会社の役員を最後に、65歳で定年を迎え、1994年、妻の実家がある名古屋市に移って、貿易会社の顧問に就任した。顧問を退いた一昨年前からは、ミシガン州のアメリカンチェリーを日本に紹介する会社を設立し、現在も意欲的にアメリカと日本とを行き来している。

 2年前の7月、矢部さんは事業を始めるに当たって、アメリカ視察旅行に中堀さんを誘った。お互い遠く離れて住んでいたが、矢部さんの「筆まめ」が友情を長続きさせたと、中堀さんは笑って言う。二人一緒の海外旅行は初めてで、飛行機の中で、大辻さんの話が出た。「ジョージさんは今どうしているのだろうか」

 バンクーバー新報のウェブサイトで、いろいろサポートしているのに目を留め、たずね人として載せてもらえないだろうかと思いつく。

中堀和勇さん
 将来は外交官か貿易商になりたいと夢を抱いていた中堀さんは、同志社大学に通い、生きた英語を学ぶために進駐軍のセントラルスクールに働いていた。語学力がずば抜けて良かった中堀さんは、セントラルスクールの学長に勧められて、アメリカへの留学を決意する。1949年、ミネソタ州セントポーロ市のセントトーマス大学から奨学金授与、入学許可の通知を受け、12月渡米。1950年度2月から編入、1953年2月卒業。その後、ワシントンDCに移り、クリントン元大統領、アロヨ現フィリピン大統領も卒業した名門大学のジョージタウンユニバーシティに編入し、卒業。1955年、28歳で帰国後は、ロッキード・エアクラフト社に勤務。1959年からは住友商事で定年まで働き、英国、オーストラリアなど、さまざまな国に駐在し、その語学力を活かす。大辻さん曰く「まるで、ネイティブのような英語」。現在は、日野国際友好クラブの顧問やサロンドトーキョ運営委員などに携わっている。

大辻ジョージ(正男)さん
 第2次世界大戦中、大辻さんはカナダに住んでおり、ほとんどの日系人がそうであったように、辛い強制疎開の経験を持つ。終戦後の1946年、高校1年の時、大辻さんは父親の郷里滋賀県に行く。戦後の食糧難の時であり、食べるために進駐軍のセントラルスクールで図書館員としてアルバイトをする。カナダは戦勝国であったアメリカとの友好国でもあり、日系カナディアンの大辻さんは、特別待遇扱いで、当時、京都ステーションホテルを宿泊所としていた。1950年、アメリカへ医学を学ぶために渡る。同じ時期、渡米していた中堀さんと文通をしていたので、プリメディカルの勉強をしていた大辻さんが、その後医者になっているのではないかという、問い合わせ内容になったのだろうと大辻さんは言う。実際には、大辻さんは主に1967年から不動産関係の仕事に携わっており、自ら会社も設立した。現在は友人の会社であるアメックス・リアルティで活躍中である。


友情を再確認

 1年前に、大辻さんを探し当てた時点で、すぐにでもバンクーバーを訪れたかったという矢部さんと中堀さんだが、家族に病人が出たりして延期となり、今回1年ぶりに熱い思いがかなった。わずか数年、戦後の混乱期で青春を分かち合った3人が、今も変わらぬ強い友情で結ばれ、56年の歳月を経て再会したのは奇跡にも近い朗報である。

(取材 ミネ内田ビイラー)