SPECIAL 2005
2005年6月9日 第24号 掲載
![]() 「日本美術にもっと親しんでいただけたら」 と語る河合教授 |
![]() 『燕花子』や『紅白梅図』など、 多数のスライドを使って講演が行われた。 |
去る6月2日、バーナビーの日系ヘリテージセンターにおいて、慶應義塾大学教授(日本中世 近世美術史)河合正朝氏の講演会が、UBC日本研究センターの主催で行われた。この講演会には50名あまりの人々が集まり、会場は立ち見の人もいるほど。河合教授は終始おだやかな口調で、尾形光琳の作品を中心に日本美術におけるデザイン性とその文学的背景について、わかりやすく語りかけた。
日本の美術はだれでもわかる
河合教授は講演の冒頭で、「美術品を見るのに、かまえてしまう人がいますが、日本の美術は誰でもわかるのです。気がついていないだけ」と語り、日本美術と文学との深い関係を強調した。また、日本の美術は一つで完結するような完璧なものではなく、他のものとの組み合わせや重ね合わせによって美を作り出していく、いわば「アンサンブル」と指摘した。河合教授は雪舟などの水墨画の研究者として知られているが、今回の講演では江戸中期の画家、尾形光琳の作品を中心に、いわゆる琳派の人々のデザイン性を通して、日本美術の特質を解き明かしていった。
尾形光琳の『燕子花図』(かきつばたず)や『紅白梅図屏風』は、中学の歴史教科書にも取り上げられるほど有名。特に昨年、『紅白梅図屏風』が金箔押を使ったものではなく、金泥によって描かれたものであることや、流水部分に銀が全く使われていなかったということが、蛍光X線を使った光学的手法による研究によって明らかにされ、大きな話題となった。新聞などでは、この発見によって美術史家が面目を失ったと言うような記事もあったが、河合教授にとってはそれほど大きな驚きではなかったという。
「この『紅白梅図』の文学的背景には、暗い夜の中から漂ってくる梅の香りを詠った中国の詩、そしてそれを基にした古今集の和歌などがあります。夜の深い闇をあらわすのだから、ブルーに銀というのはありえない」と、河合教授は指摘する。『燕子花図』にも文学的背景がある。『伊勢物語』の八つ橋だ。実際の画面では八つ橋も、カキツバタを眺めながら都をしのんだ業平も省略されているが、光琳の時代にこの絵を鑑賞した人たちは、『伊勢物語』との関連をただちに理解したという。
「カキツバタといえば『伊勢物語』というのは、当時の人々にとっては常識だったのですね。上流階級の人々は『源氏物語』や『古今集』などは常識として知っていた。絵を見て、古今の世界や伊勢物語の世界を連想できたわけです」
平安時代から続く日本の美意識を象徴する言葉は、「心」だと河合教授はいう。美術の中核にある文学的なものを理解できるかどうかが、「心」のあるなしに関わってくる。「心ない」人は美を理解できない、景色の美しさもわからないだろうというのが、王朝人美意識だった。この美意識は近世になっても脈々と続いており、貴族だけではなく、庶民の使う装飾品などにも文学的な背景を持ったデザインがたくさん使われている。桜と言えば吉野、紅葉と言えば竜田川を象徴しているといったような、デザインの背景にある文学性は多くの日本人にとって常識であり、作品を通しての画家からの問いかけにピンと気づく鑑賞者こそ「心ある」人だったのだ。
私淑によって続いてきた琳派の伝統
尾形光琳は1658年、京都の裕福な呉服商の家に生まれた。実家は本阿弥光悦と姻戚関係にあり、光琳も幼少の時から能を習うなどの恵まれた環境に育っている。30歳のときに家督を継いだが、10年もしないうちに膨大な遺産を遊興に使い果たし、困窮状態に陥ったという。派手な暮らしの兄とは反対に、地味に仕事に打ち込んでいた尾形乾山にまで借金を申し込み、乾山の作っていた焼き物の絵付けを手伝ったりしたようだ。光琳が本格的に絵筆で立つようになったのは、この困窮生活が大きなきっかけだ。
光琳は、父親や山本素軒などの影響で狩野派の絵を学んでいたが、俵屋宗達に私淑し、彼の画風を慕うようになった。いわゆる琳派と呼ばれる絵画の流れを宗達から始めるのはこのためである。琳派の特徴の一つに、師弟の間で受け継がれるのではなく、「私淑」をきっかけに続いていった点がある。例えば酒井抱一は、光琳の死後100年たってから彼に私淑し、光琳の作品集を出版した。尾形光琳が一般の人々にも広く知られるようになったのはそのためである。酒井は弟子を育てたが、またそれ以降は時折り現れる「私淑者」によって、琳派は現在の美術界にも大きな影響力を持ち続けている。
河合教授はデザイン性を「見た目がきれいで使いやすい」ことがポイントと指摘する。光琳に代表される日本美術は、生活の一部として使われてきたものにしばしば現れており、工芸作品と絵画がこれほど互いに影響しあっていることは、中国やヨーロッパにはない現象だという。光琳は陶器の絵付け、漆器、友禅などの工芸作品もたくさん残しているが、絵画の意匠を工芸品に盛り込むのと同時に、絵画の中にも胡粉を白く盛り上げて使う蒔絵の技法などを積極的に取り入れている。
「光琳菊」をはじめとする光琳の意匠は今も着物のデザインとして使われているが、河合教授は、着物の模様が絵画的であるということは西洋にはないことと指摘する。また、一つの着物に四季を象徴するデザインを描きこみ、文学的な四季の移り変わりを象徴させるなどの工夫にも、日本独自の美術のありようが現れているという。
「アンサンブル」の美
講演の終わりに、河合教授は金閣寺の写真を示し、「金閣寺の上の二層は阿弥陀様を祀った仏教建築ですが、一番下の層は寝殿造りの住宅建築」と示し、折衷によって生み出される日本の美について語った。「中国や西洋の絵は、一つの中で完結しています。しかし、日本ではアンサンブルといいますが、統合の美。統合させて、合わせて楽しむのが日本美術の特徴です」
一枚の絵の中に描かれた室内に、水墨画や大和絵が描かれていたり、花が並べられていたりする光景が見られたり、花瓶だけで独立するのではなく、後ろに絵を飾ってみるなどといったような、単独では完結しない美こそ、日本の特徴なのだという。情景を描いた上に和歌が書き込まれて一つの絵になったり、碁盤のような日常の道具に美しい風景が蒔絵で描かれていたりするのも、その例だろう。「春だから、この絵を床の間に飾る」といったように、自然の季節と絵の中に描かれた季節とがあわさって、アンサンブルの美をつくるのも日本美術独特のありようだ。
「侘び、さびの象徴のような茶室と秀吉の黄金の茶室とが平行して存在しているのも不思議ではないし、床の間に食器棚を置いたり、旅館のようなところで床の間に金庫やテレビを置いているのも日本的なんですね。そのうち、金庫に四季の花を描くなんてこともあるかもしれません」
河合教授は、ひごろ難しいと敬遠しがちな日本美術の特徴をユーモラスな例でしめくくり、おおきな拍手を受けていた。
(取材・写真 宮田麻未)