SPECIAL 2005

2005年5月26日 第22号 掲載



日本が誇る世界無形文化遺産をカナダで!
日系漁師の悲しみを表現した英語能『かもめ』お披露目


能『黒塚』でシテを演じる松井彬氏
面 小倉宗衛/撮 池上嘉治

演出のリチャード・エマート氏
Photo: Michael Ford


シテ方の松井彬氏
Photo: Michael Ford

BCの詩人とアメリカ人能楽師によるコラボレーション

 「カナダで英語能を」という新しい試みの発端は、3年ほど前に、在日アメリカ人能楽師のリチャード・エマートさんと、バンクーバーのマルチカルチャー劇団ディレクターのハイディ・スペクトさんが出会ったことによる。そして脚本にはBCが誇る詩人ダフネ・マーラットさんの、日系漁師の苦悩について詠んだ著書『スティーブストン』を基にした『かもめ(The Gull)』が選ばれた。このプロジェクトが実現すれば、カナダ国内初の能舞台となる。


喜多流の巨匠がシテ役を

 このオリジナル英語能『かもめ』のシテ(主人公)役は、日本の重要無形文化財である能楽師の松井彬さんが演じる。他の出演者は、オーディションで選出した地元バンクーバーのプロの役者やミュージシャンだが、全員能は初体験。松井さんは、エマートさんと共に先月より2週間バンクーバーに滞在、出演者の指導に当たった。   

 そして今月6日と7日、06年にスティーブストンで開催される本番を前に、日系ホームで行われた集中稽古の成果を、スティーブストンのガルフ・オブ・ジョージア・キャナリー・ナショナル博物館と、日系ヘリテージセンターで披露した。たった2週間とは思えないできばえに、カナダ人を中心とした観客は皆息を呑んだ。


■演出:リチャード・エマート


 エマートさんは、日本在住30数年。70年に留学のため訪日したのをきっかけに日本の伝統芸能に興味を持ち、能を知る。そしてアメリカの大学を卒業後73年に再渡日、5つある能の流派の1つ、喜多流の門戸を叩いた。その後、東京芸術大学音楽研究科で日本やアジアの伝統芸能を研究、博士課程を修了した。

 現在は武蔵野大学教授として能などの伝統芸能と邦楽を教える傍ら、喜多流仕舞教士として各方面で活躍する。また、95年には東京とペンシルバニアを拠点とする、能のトレーニング・プロジェクトを立ち上げ、00年からは『シアター能楽』として日本・アメリカ国内各地でワークショップや公演を行っている。今回の『かもめ』の演出や音楽もエマートさん。


■脚本:ダフネ・マーラット

 作家でもあるマーラットさんは、UBCで日本文学を専攻していて能に興味を持った。その後、エマートさんの催すワークショップに参加し、能を実際に学ぶ。『かもめ』は、74年にマーラットさんが写真家ロバート・ミンデンさんとの共著で上梓した写真詩集『スティーブストン』からのもの。この写真詩集は、日系漁師らが戦時下に漁船など財産を没収され、収容所へ送られた悲話をモチーフにしている。

 ストーリーは、祖国を思いながら病気で亡くなった漁師兄弟の母の魂が、かもめになって現れるという内容で、日系人の心に沈む深い悲しみをうまく表現した。さらに、「亡霊が主人公」であるという能の伝統にもはまるものである。マーラットさんは、「詩と能は概念が近く、両者とも人の心の奥深くに触れる」と述べている。


■シテ方:松井彬(まつい・あきら)

 喜多流職分の松井さんは、リッチモンド市と姉妹都市である和歌山の出身。『かもめ』の主人公の漁師は和歌山出身という設定であり、また、松井さんは30余年前の姉妹都市提携時に舞を披露するなど、リッチモンド市、とりわけスティーブストンとは以前より縁が深い。今回のワークショップを演出しているエマートさんとは、能を介して30数年もの親交がある。

 シェークスピアなどの現代劇もこなし、「年間10回は海外へ行く」という松井さんの世界を股にかけた活躍ぶりは、諸外国に対する能の認知度向上にも貢献している。視聴率20%を超えたNHKの人気大河ドラマ『元禄繚乱』では、徳川綱吉役の萩原健一さんに代わり、能のシーンを舞った。長男・俊介さんも能楽師で、元禄繚乱には親子で出演している。

 『かもめ』では、兄弟の母役を演じる。松井さんが舞台に現れると、空気が一変する。そして静々とした動きはいつしか本当に母に見え、その悲しみまで切々と伝わってくるのだ。


●重要無形文化財・喜多流の松井彬さんへインタビュー

何がきっかけで能を始められたのですか

 「たまたま趣味で謡をやっていたかかりつけの小児科医に勧められまして。病弱でスポーツができない僕に、せめて謡で声を出したら体にいいのではと。初めはその小児科の先生に習い、のちに先生の紹介で喜多流の和島富太郎先生に通うようになりました。初舞台は5歳です」


正式に入門された経緯は

 「和島先生のご子息が跡を継がないことになって、後継者探しをしていたときに、僕に白羽の矢が立ったという、偶然の縁。演じることは嫌いではなかったし、小学校終了後の12歳の時に、東京の家元に住み込みで弟子入りしました」


大変早い時期の弟子入りですが

 「反抗期ということもあって(笑)、家を出て東京に住んだら楽しそうだと思った節もありますね。修行の苦労は考えずに、二つ返事で弟子入りを決めました。入門してからは、朝5時に起きて掃除や洗濯などいろんなことをやりました。そして朝8時には学校へ行って、午後3時から夜遅くまで稽古。厳しかったですね、修行ですから」


『かもめ』は英語能ですが、松井先生の台詞は
 
「私は日系1世の役なので、日本語を話しますが、息子役が英語で内容を繰り返すので、カナダ人が見ても理解できるようになっています」


そもそも日本語でも台詞は聞き取りにくいですし

 「能の言葉は室町時代の口語だし、和歌になっていますから。オペラもそうですが、物語を理解していればいい。だから能は源氏物語など、有名なものしかやらない」


台詞が和歌ならリズム感がありそうですね


 「そう、だから眠くなる(笑)。能は視覚的にも美しいので、美術館で絵を鑑賞するように見てもいい。物語は単純です。ワキ(脇役)が全て台詞内で状況を説明していきますし」


現代劇もおやりになっていますが

 「来年はデンマークでハムレットをします。オフェーリアやオセロのヤーゴの妻エミーリアもやりましたよ(笑)。演出をしたこともあります」


能の特徴とはどんなものでしょうか

 「例えば同じ古典芸能でも歌舞伎と能は水と油。能は人間の内面を表現しますが、歌舞伎は外面の荒々しさを表す。能は面をつける舞台芸能では世界最古のもので、他は皆そこから発展したものです。また、女性の面をつけても声も歩き方も男性のままなのが能ですが、それでも女性に見えてくる。外面を超越するのです。それと、能の主人公は必ず亡霊なので、物語は何でもありです(笑)」


海外で生活していると日本文化の素晴らしさを感じます

 「アメリカに留学した学生が向こうで能を学んでくることもある。アメリカの大学では積極的に日本の伝統芸能を誘致していますから。日本もそうなるといいのですが。この『かもめ』も、多くの日本の方に見ていただきたいですね。日系人の苦労を描いたものですし」


海外でのエピソードはいろいろあると思いますが

 「能の衣装は一着何百万円もするので、汚さないよう気を使うのですが、外国人スタッフの方に舞台の床拭きを頼むと、靴のままでやってくれる(笑)。文化の違いでそういったことは多いですね」


最後に、初心者へ向けた能の楽しみ方をお願いします

 「気楽に来てください。言葉を聞き取ろうとか、わかろうとかしないでいいんです。もし眠ったとしても、それはいい眠りになるはずですよ(笑)」

(取材 藍智子)

能基礎知識
シテ方 主人公の亡霊で、面をつける
ワキ方 シテ方の相手役で、面はつけない
囃子方 笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方で構成される楽器演奏者
狂言方 2部構成の能の繋ぎに登場し、物語の状況を台詞で補足する。間狂言(あいきょうげん)と呼ばれる
能舞台 音響効果のために、床下はプール状になっている。昔は壷が並べてあった
 
インフォメーション

リハーサル中の松井彬氏
Photo: Michael Ford

『かもめ』の稽古風景
Photo: Michael Ford
マルチカルチャー劇団Pangaea ArtsのHP。
『かもめ』の詳細ページもある(英語)
http://www.pangaea-arts.com/

シアター能楽のHP(英語)
http://www.theatrenohgaku.org/

能についてわかりやすく解説したHP(日本語)
http://www.iijnet.or.jp/NOH-KYOGEN/