SPECIAL 2005
2005年5月5日 第19号 掲載
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新刊:加藤幸彦著『絶対に死なない 最強の登山家の生き方』 |
1957年3月、24歳だった加藤幸彦氏は前穂高岳北尾根第四峰正面岩壁、通称「四峰正面」の氷壁にビバークしたまま激しい横殴りの吹雪に耐えていた。彼は凍傷を防ぐために握りこぶしで氷を15時間もたたき続けたという。『絶対に死なない最強の登山家の生き方』は、まるで素手で氷壁に自らの歴史を刻みこんだような本だ。
行間からは「自分の生きた証を残したい」という一人の男の激しい思いが立ち昇ってくる。強烈なまでの意志で、数々の山々の初登頂を果たした加藤氏の「自分史」の重みは、本を持つ手にまでズッシリと感じられるほどだ。
「成果を忘れ、次の目標に向かう」男が登山から得た経験則
1962年、ヒマラヤ、ジュガール・ヒマール最高峰ビックホワイトピーク(7083m)、64年には未踏峰だったギャチュンカン(7922m)の登攀に成功するなど、加藤氏は日本人によるヒマラヤ登山の輝かしい歴史の一翼を担ってきた。しかし、彼は『絶対に死なない』の冒頭でこう言い切る。
「私が登山を継続してきた一番の理由は、登ったあとはその成果を忘れることにしているからである。成功した途端、どんな輝かしい実績でもすべて過去のものとなる。過去の思い出に生きる人間は、他人から高く評価されたことに満足するのだろうけれども、私は常に未来の夢を生きている人間だ。成功体験は実績と自信を与えてくれるが、思い出や他人の評価など何の役にもたたない」(P3)
過去の思い出や成果にこだわらず、常に次の目標設定を続けてきた加藤氏は、ビジネスの世界を「セミ・リタイア」した後、ブリティッシュ・コロンビア州のケローナで日本からの友人・知人を夏はカナディアン・ロッキーのトレッキング、冬はビッグホワイト・スキーリゾートでスキーを共に楽しんでいたが、昨年から完全にリタイアを宣言した。そんな彼がなぜ「自分史」を書くつもりになったのだろうか?
―この本をお書きになるきっかけというのはどういうものだったのでしょうか?
加藤 色々な方から何度も出版のお話がありました。しかし、ヒマラヤ登山に関しては、たくさんの人が体験記を書いている。中には海外の山に一度しか登ったことも無いのに書いている人までいるでしょう?そういう人達の書いた本とごっちゃにされるのが嫌だった。しかし、体験記を読んで登山の参考にする人もいるのだから、私のように世界各地の山々を異なった環境と条件の中で何度も登った人間が書くべきだという勧めを受けたのです。講談社は局長さん自ら熱心にすすめてくれました。
―では、登山家の人たちを読者として一番に想定していらしたのですか?
加藤 いいえ。私は自分の登山経験を通して得たものを一般の人に伝えたかった。今一番大変な中小企業の経営者の方々などに役にたつと思っています。頼まれて色々なところで講演するときも、登山家より一般の方々の方が熱心に聴いてくださいます。
「危険は回避すべきものであり、困難は克服すべきもの」
加藤氏は自らの登山体験から、「危険」と「困難」とを峻別する。「危険は回避し、困難は克服する」という彼のモットーはビジネスにも共通するものがあると言う。加藤氏はこの経験則にしたがって、ビジネスマンとしても大きな成功を重ねてきた。
タイトルにもあるように、「死なないための周到な準備が必要」とし、その上で「平の隊員で参加したときも、隊長として隊を率いていったときも、隊員全てを未経験者で構成した最初のヒマラヤ遠征以外、私が経験した遠征はすべてうまくいっているから、そういう実績を買われて、貴重なプロジェクトへの協力要請をいくつもいただいた」と書いている。自分の登頂体験を「全て成功した」とさりげなく書ける登山家はそれほど多くはあるまい。加藤氏の強い信念と努力、そして運をも招く実力がそうさせたのだろう。
ベトナムの最前線への転進
三浦雄一郎氏のエベレスト大滑降プロジェクトに、勤務していた会社を辞めて参加していた加藤氏は、プロジェクトの終了後、スポンサーの一人だった赤井電機の赤井社長の「明日からうちへこい」との申し出を受けた。給料は前の職場の2倍払うが「倍払うには条件がある。ベトナムに奥さんを連れていけ。知り合いのアメリカ陸軍・駐ベトナム最高司令官に頼んで軍属大尉のタイトルを取ってやる」(P155)と赤井社長に言われ、加藤氏は「戦場へ行くのは全く問題ありません」と即答した。
そして、ベトナムへ派遣されてからの加藤氏の活躍は驚くべきものだ。軍属の資格を得て、公式に「従軍」した彼は米軍の軍用機で最前線へ飛び、アカイのテープレコーダーを売りまくった。加藤氏はベトナムの前線で「音楽を楽しんでいる」(P161)兵士たちの間を飛び回り、月商3000万だった売り上げを
倍に伸ばしたという。
私は厚木基地の近くの学校に通っていたので、ベトナムから帰ったばかりの兵士たちを何度もみかけた。彼らはロック音楽に夢中になっているように見えたが、決して「楽しんで」いるとは思えなかった。加藤氏も「彼らの心に巣食うこの恐怖を、一時的にでも取り除いたり忘れたりするために一番必要なものは、ロック音楽しかなかったのだ」
と書いている。
白き天女の峰に立つ
加藤氏はベトナムから帰国後も、国際的な舞台でビジネスマンとしての成果を積み重ねていった。一方、登山に関しては三浦雄一郎氏のプロジェクト以来遠ざかってしまう。しかし、トロントの現地法人の建て直しを引き受けたのをきっかけにカナダへの永住を決意した加藤氏に、再び登山のチャンスが訪れる。1993年のアリューシャン列島遠征だ。この遠征隊はアリューシャン列島の最高峰シシャルデン(2861m)をはじめ、二つの山の初登頂を含む合計八つの登頂に成功した。還暦を迎えていた加藤氏は、もっとも困難なイサノトスキー(2465m)の初登頂を成し遂げた。
そして63歳のときには、26年ぶりにヒマラヤへもどり念願であったチベット側からチョモラリ(7326m)の登頂にも成功した。
「ネバーギブアップ」と心で叫びながら、一歩一歩進む加藤氏の姿は、NHKドキュメンタリー番組『白き天女の峰・チョモラリに挑む』として世界で最初のハイビジョンとして放映された。
加藤 放送の直後からファックスや電話が次々と日本からケローナの自宅にかかってきましてね。とても感動した、励まされた、という声だったんです。
![]() 世界最高峰・マウント・エベレスト(8,848m) 中央奥の黒々とした三角錐の山がエベレスト。 左下にヒマラヤ最悪といわれるクンブ氷河のアイスフォールが見下ろせる。 |
―どんな方々からファックスが来たのですか?
加藤 普通の方です。特に中高年の男性の方が多かった。
酸素ボンベなどの補助を登山家として最低限に絞るなど、還暦を越えても加藤氏は常に高い目標に向かって自らを偽らなかった。
「どんなに困難な山でも、頂上へ通じるルートは必ずある。絶対に見つけてやるという気概があれば、必ず見つけることができるのだ」(P213 )
リタイアしたあとの暮らしといっても、加藤氏の目はつぎの目標にむかって高くのびている。加藤氏は『絶対死なない』を、最初で最後の本と言っていたが、彼が刻もうとしている自分史はまだまだ続きそうだ。
(編集部)