創業7年目を迎えたチュラ・バンクーバー店
確かな技術とセンスの良さ、細やかな日本的サービス、そして開店当時から値上げしていない低価格で人気のあるチュラ・ヘアサロンは、今年の9月で創業丸7年となる。ヘイスティングスに出店することが決まったとき、「場所が良くない」という反対もあったチュラ。周囲の懸念を裏切り、2倍の店舗にするほどの繁盛振りである。
この店舗はオーナー村田拓司さんの2店舗目にして初の国外店だ。現在、東京・板橋に3店舗目もオープンし、村田さんは忙しく両国を往復している。バンクーバー店を開く以前より、アメリカ、ロンドン、シドニー、タイ、台湾、香港、マレーシア、ルーマニア、フィリピン他世界各国でヘアショーを開催したり、審査員を務めたりと海外でも活動してきた村田さん。とはいえ、異国の地であるバンクーバーでのビジネスに、不安は無かったのか。
システムの違い、泥棒に戸惑いながら
知り合いに「バンクーバーに店を出したらどうか」と言われ、「おもしろそうだ」と実行に移したのが始まりだ。通訳として知人に各機関や業者との手続きに同行してもらいはしたが、リサーチから開店・運営まで村田さんがすべて独りで行った。東京本店を順調に経営してきた知識から、ヘアサロンのノウハウは知っているつもりだったが「日本とシステムが何もかも違い、驚いた」。
日本では数日で済む手続きに数ヵ月かかるなど、どれをとってもスムーズではなかった。その上、交渉事はすべて英語である。元々英語は苦手で全く話せなかったという村田さんは、バンクーバーへ出店する話が浮上してから仕事の合間に熱心に「駅前留学」で有名な英会話学校へ通った。結局仕事が忙しく、片手間の勉強となり「ノリと勢い」で開店にこぎつけた。オープン後は、泥棒の多さに辟易させられたが、移転することなく現在に至る。
「手に職を」と美容師へ転身
東京出身。ファッションには興味があったものの、特に美容師を目指していたわけではなかったという。周囲に手に職のある友人が多かった影響で、「自分も何か手に職を」と思ったのが美容師になるきっかけだ。村田さんはその時すでに社会人だった。酒場での接客業。そこでの接客経験は今も生きている。
決断後すぐ美容学校に入学、1年間通う。筆記試験に合格した後は実際に現場で1年学び、再び実技試験を受けた。美容師免許を取得してからは何軒ものヘアサロンで勉強を続けた。勤勉・実直・謙虚。それでいて力の抜けたほのぼのさも持ち合わせる村田さんに、「店をやらないか」という話が舞い込んだ。10年近く前になる。
カナダと東京を半月ずつ往復の日々
人気ドラマ「チュラさん」がブレイクする前に命名された店舗名チュラは、〈美人〉という意味の沖縄の言葉〈チュラ・カーギー〉から。「美しい」というニュアンスが気に入り使用したが、後にチュラさんブームが到来、結果的に人々に馴染みある名となった。
チュラ本店も新店舗と同じ板橋にある。85年にオープンしたその店を96年に村田さんが買い取った。その2年後にバンクーバー店をオープンと、早い時期から事業家の顔を覗かせる。バンクーバー店オープン後半年ほどは従業員も無く、美容師は村田さん1人。そのため、月の半分しか店を開けることができなかった。そして残りの半分は東京本店に出勤するという、過酷なスケジュールをこなした。「幸い身体が丈夫で。体格もいいので誰も心配しない(笑)」と言うが、事務処理をしたり毎晩床に就くのは今でも午前3時を過ぎる。
管理しやすい規模での経営が理念
カット25ドルという値段設定は、バンクーバーの物価や所得から算出した。「誰でも来ることができ、誰でも変われるヘアサロンに」という心意気。安くてもセンスは上質だ。村田さんの繊細で丁寧なカットにはファンが多い。
店内のそれぞれのブースには花が活けてある。細やかな気遣いもまた、村田さんの人柄から。従業員からの支持も高く、村田さん自身も従業員教育のモットーは「楽しいのが1番」と言い切る。
店で使用する製品はほとんどが日本から仕入れたもの。普段から使い慣れていることと、注意書きなども正確に把握できるから。スタッフも全員日本人で、バイリンガル・スタッフも含め常時12〜13人を抱えている。本店スタッフは5〜6人。「あまり大きくしたくない」との気持ちがある。大規模になれば仕入れなども多くなり、コスト面や管理の問題も増えるからだ。
「日本とカナダ、ビジネス的にはどちらも一長一短。仕事をするという部分では、結局は同じだと思う」と語る村田さんの次なる展開は何か。目の離せない人物である。
(取材 藍智子)
|