SPECIAL 2004

2004年8月 33号 掲載


ー投稿ー
特集 「終戦記念日に思う」

 

  1945年8月14日に、日本政府がポツダム宣言を受諾し、翌15日、第二次世界大戦が終結した。1982年4月の閣議決定により、この8月15日が終戦記念日となり、「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」となった。

 バンクーバー新報では、今回「終戦記念日に思う」と題して読者の皆様に、終戦に関するご投稿をお願いしてきました。原稿をお寄せくださいました方々に厚くお礼申し上げます。
できるだけ原文を尊重しながらも、旧仮名遣いや漢字などは一部訂正させていただきました。また、字数の都合などで割愛させていただいた箇所もございますが、ご了承ください。掲載は順不同。 (編集部)

 

帰らざる夏    
       横山赳夫

 「帰らざる夏」とは、加賀乙彦著の本の題名です。その夏は、普通一般的な夏のことではなくて、終戦の年の夏、つまり昭和 20年の夏を指しているのです。

  この本は、後日谷崎潤一郎賞を受けましたが、加賀乙彦はペンネームで、本名は小木貞孝氏です。さらに戦後推理小説家としても名を成している三好修(本名川上雄三氏)も「帰らざる夏」の体験者として一堂に会していたのです。小木氏は47 期生として、川上雄三氏は49 期生として、そして私は48 期生として、その場所というのは名古屋陸軍幼年学校の大講堂。

 日時は、昭和 20年8月 15日水曜日の正午のことでありました。

 この日は、朝から地下壕構築作業に全校生徒が従事していました。

そこへ が1機飛来し、去る6日の広島の惨禍に鑑み、単機でも新型爆弾(すでに物理の教官の分析で原爆と判明していた)の被害甚大であるとして全員退避、間もなく は去りましたが、正午より大元帥陛下(当時我々将校生徒は、そのように陛下を呼んでいた)の「玉音放送」があるとの予告で、作業衣を夏の第一種軍装に着替え、白手套(手袋のこと)、着剣(九九式短剣)姿で、全校職員生徒緊張のうちに大講堂のラジオの前に集合し、座してはいましたが不動の姿勢で「玉音放送」を聴いていました。

 しかし、電波の受信状態がひどく、まったく聴き取れませんでした。人見順士校長閣下(陸軍少将)は、本土決戦のため全校挙げて奮励を促すとの訓示をされました。

 午後は再び地下壕の作業を続行、作業終了後、山口敏夫生徒監主事(陸軍少佐)から停戦の大詔渙発されたとの訓示を受け、みな茫然自失、敗戦という深刻な未曾有の事実に愕然としたのです。

 話は少し遡りますが、昭和20 年7月27 日から8月4日まで、生徒は帰省を許されました。本土決戦も間近となり、それとなく両親に別れを告げてこいとの含みから、空襲熾烈のさなかに夏休みが認められたのでしょう。

  艦砲射撃、空襲機銃掃射と危険にさらされながら8月4日の日夕点呼には 20人の未帰校者も翌5日の帰校申告時には無事全員が揃いました。

  そして8月13 日から1ヵ月の予定で観武台(校庭の北東にあって毎朝宮城と郷里に向かって遥拝する小高い丘)の中腹に地下道場を建設する作業が開始されましたが、その3日目に思いがけず終戦を迎えたのです。

 幸いにして名幼は終戦まで無傷でしたが、名幼を目標に落とされたのは「紙の爆弾」だけでした。米機は大量の伝単(宣伝ビラ)を投下しました。

見上げる我々の上にたくさんの紙片がヒラヒラと陽光を反射しながら舞い落ちてきました。

 内容は、「軍閥の誤った教育から目覚め、福沢諭吉、板垣退助の精神に還れ」というものでしたが、その日本語は舌足らずというか我々に違和感を抱かせる表現でした。

 終戦前日の8月 14日、南方から侵入した、たった1機の が観武台上空で東へ直角に方向転換するとみるや1個の爆弾(1トン爆弾)が校舎のすぐ南側の鷹来工廠に命中しました。

防空壕に退避していた我々が驚いたのは、その爆弾の照準の正確なことと工廠で製造していた小銃弾を誘爆させていつまでも燃え続けていたことです。

空襲警報が解除されてもパチパチと小銃弾のはぜる音が深夜まで響いていました。

 8月27 日(月)、1年5ヵ月の名幼の生活に別れを告げて、同年3月10 日東京の山の手地方大空襲により家屋が焼失してしまい、家族の疎開していた長野県原村に帰り着いたのでした。

 昭和20 年の夏は、まさに「帰らざる夏」でした。歴史的にみて、同じ夏が繰り返されることはあり得ませんが、私は「帰らざる夏」をむしろ「取り返しのつかない夏」とみています。

その「取り返しのつかない夏」を招来した戦争そのものを今一度深く見つめ直してみるべきではないかと思っております。


終戦記念日に思う
K.O.

 今から50 数年以上前、終戦の日私は岐阜県の土岐津市にあった愛知時計の分向上に努めておりました。

名古屋の熱田神宮の側の愛知時計は6月10 日の大型爆弾の大空襲に依り全滅し、閉鎖され、仮の工場が土岐津市に移ったためです。8月15 日正午天皇陛下の玉音に依る放送が有るからと云うので、従業員全員がラジオの前に集合しました。

 正午、古ぼけたラジオからあまり正確ではないがしっかりした陛下のお声で終戦のおつげがありました。私達は大体終戦は予期しておりました。

  所長の今日でここも終わりとの言葉で机の上の物を片付け、汽車にて中央線にある家に帰りました。汽車の中の人達は皆黙っていて話をする人はいませんでした。

  その日も暑い夏らしい日だった様に覚えています。

私の両親は中央線の小さなと云ってもその辺りでは一番大きな田舎の町に住んでいました。

私は学校も務めも東京でしたが両親が空襲を心配するので一時田舎に帰っていましたが、その頃若い者が家に居る人などいなくて、名古屋に一時務めに出ました。

名古屋は毎夜、空襲で寝られないので週末はいつも片道3時間くらいかかる田舎に帰っていました。

 その田舎の家の近くにその辺の大地主さんの家がありました。広々とした大きな地所に大名屋敷のような立派な塀と瓦屋根の家でした。

 その家のご主人はまだ若い方でした。地主なので戦争にはとられなかったとかで家におられました。その方が終戦からあまり遠くない或る日、ご自宅の床の間の前で切腹されたと聞きました。

新聞にも東京などで有名な方達が切腹されたと報じられました。

 少したってから陛下が全国へ巡業にでられました、その時私は岐阜の方に務めておりましたので、岐阜市に来られた陛下を拝見しました。陛下は車から出られ左右の大衆に向かって何度も何度もまるでお詫びをする様に深く頭を下げられました。

  お付の人が車の扉を開けて、陛下、もう充分ですからと云う様に車に乗るよううながしても陛下はおじぎをお止めになりませんでした。

 その御姿を忘れることはできません。

 名古屋の大空襲の地球が真っ赤になったような夜空の事や大空襲で学徒出陣の学生や工場の人達が吹っ飛び、地面にあいて出来た池が血の海となった様や、学生達が日の丸を手に近所の人達に見送られて出陣していった姿を想い出します。

僕には学校を出てからの大きな夢があったのに残念だったと云った学生の言葉を想い出します。

 その人達は誰も帰ってきませんでした、

 鹿児島へ嫁いだ姉を迎えに行った時、片道分だけのガソリンを積んだ特攻隊の出発を見送りました。飛び立ったその単発の飛行機で町の上を翼でゆっくり左右に振って別れの挨拶をして行った若者の姿も忘れません。

鹿児島にもアメリカの飛行機が落ちて、若いパイロットが近所の軍隊に連れて来られ、青い目でオドオドしているのを見ました。

 私の姉の主人は航空会社のパイロットでしたが軍属で出征し、ニューギニアのジャングルで終戦を知らず、また、終戦のことのビラがまかれても信じず、3年後にジャングルから出てきて運良く帰ってきました。その時、アメリカの人達は皆、親切にしてくれたそうです。

 日本も焼け野原ながら、また、不況から立派に立ち直りました。

 ずっと以前、ニューヨークの五番街で見た日本人は小さな身体にじみな背広をきっちりと着て、真剣な眼で歩いていました。

今は英語も上手になり、髪の毛も金髪やら紫など、サッカーで活躍したり日本も変わりました。

若い女の子もこのバンクーバーにいっぱい来て、街中で食べながら歩いたり大声で向かい側の人に話したり昔と変わりました。

私達の来た頃は、皆、日本を背負っている感じの気構えをもっていました。そんなに固くならなくても誇りだけはもってください。

終戦記念日は遠い昔となりましたが、あの時亡くなった敵、味方の人々のご冥福をお祈り致します。 

終戦記念日に思う   
村田しのぶ(Shinobu M Verhagen)

 「それは世紀最大の花火でした」

 私の恩師、故宗川章先生の言葉を今でもはっきり覚えている。私が高校時代を過ごした豊橋市(愛知県)の隣、豊川市は第二次世界大戦時には軍事工場があり、亡き宗川先生もそこで学徒出陣として毎日働いていた。

 私は1970年生まれ、戦後四半世紀後に生まれ育った。おそらく私達世代が最後の『戦争を知らないが耳にした子供たち』ではないかと自分で思ったりする。


 私の小学校の教務担当教師が特攻隊出身の先生で、彼の当時の話など覚えている。

 「誰ひとり、天皇万歳なんていって死んでいった奴はいませんでしたよ。無線から聞こえる声は『おっかさん』でしたよ」。

先生は敵軍の船舶に追撃する前に打ち落とされ、漂流しているところを保護され命を救われたとのこと。「僕は特攻隊の生き残りです」が口癖だった。

 私の両親の世代の話せる英語「GIVE ME A CHOCOLATE」。浜松米軍基地で英語を習ったという高校時代の英語教師。脱脂粉乳が嫌いだった私の母。

戦争が1年早く終わってしまいお国のために戦争に行かれなかったと悔やむ私の父の兄。

軍曹の靴磨きに精を出し、硫黄島を免れた祖父。竹やりで米軍機を落とそうとした祖母の婦人会。被爆者のただれた皮膚。戦争犠牲者と名乗る乞食。

中国残留孤児の 放送。君が代の是非。愛国心といえない日の丸。そして今カナダに来てはじめて知る強制キャンプに収容された日本人の方たちの話。それぞれの人生。

 宗川先生は定年退職後、自転車で世界を駆け巡りアルゼンチンで事故に遭い他界された。

 豊川と豊橋が空襲に襲われ、町が火の海になるのを後に逃げ延びた防波堤からは、真っ赤に燃えあがる豊橋市が見え、恐怖のなかでもあまりに美しい空の色に「何て美しい花火だろう」と思わずにはいられなかったと言われた先生の5回忌がもうすぐ訪れる。

 私に戦争を聞かせてくれた方たちが去ってゆく。二番煎じだがこうした私の恩師たちの話、今年も若者に聞かせようと思う。

私の終戦記念日
      岩崎 功

 その日は年間で一番暑い時期1945年8月 15日正午12 時に天皇陛下より重要な放送があるとの事で、ラジオのある隣の家に他の人たちと集まりました。

放送は騒音がひどく解りにくかったのですが、戦争は終わり、無条件降伏という事でした。その時の皆の雰囲気は全く虚脱状態と云う言葉通り忘れる事は出来ません。

この年、私たちは小学校4年生9歳の時です。

住まいは千葉市の郊外です。 45年の初め頃から飛行機の音が聴こえますと木の下に隠れました。米軍機グラマン 戦闘機でパイロットの顔が見えるぐらいの低空飛行でくるのです。

民間人は撃たれませんでしたが、私たちの小学校は天井に機関砲でたくさん穴を空けられました。授業中空襲警報のサイレンが鳴ると裏山の防空壕に逃げ込みました。

1万メートル上空に 爆撃機が飛行すると日本の高射砲の弾が決裂し、丸い輪が出来ます。

  時々、日本の戦闘機ゼロ戦、又は隼との空中船で両方が煙を引いたのを見ました。私たちの近くには焼夷弾といってジェル状のドロドロした地上で火災を起こす爆弾の様なのを落とされました。

キーンと空気を引き裂く程音量が大きいと、そら近いぞと防空壕へ逃げ込みました。

3月と7月に東京に大空襲があり、それぞれ5万人くらいの死者が出て、私が後に東京で友達になった彼の母もその一人でした。

この時、3日間ぐらい半焼けの紙が空から雪が舞う様に飛んできて畑や山林を白くしました。

  子供の私たちに軍部からの要請で切ったあとの松の木の根を掘り運ぶ作業、これは根より油を絞り出して戦車を動かすとの事。

また、向日葵の種を植えさせられ、この油は飛行機を飛ばす為と言われました。

  戦争は終わり、秋には学校も始まりましたが、物が無い時で履物は下駄、みんな素足で教室は火の気なしでした。

  その頃、衛生状態がよくなく、女生徒は頭にシラミがいるといわれ、 という殺虫剤を振り掛けられて、白い粉だらけの頭にされた事があります。

  私の住んでいた辺は電気水道がなく、灯りは石油ランプ、水は井戸からでした。食糧不足で昼食を持って来られない子がいまして、先生の助言で私は薩摩芋を持って行きました。

先生不足で兵隊上がりの先生は海軍の団体責任主義が一番だと精神棒と云うのを振り回して尻を男女問わず叩かれました。

 身内の犠牲者として母の弟一人はフィリピン沖海軍、もう一人は少年航空兵。

で試験に受かると戦闘機乗りとして訓練させられ二十歳ぐらいで死亡しました。日本は戦後の荒廃から 59年目。よく今日の経済文化を築いたものです。


終戦記念日に思う
      志道良夫


 「終戦記念日」という言葉を私は使いたくありません。第二次世界大戦を起こした張本人の一人でありながらレフェリーのような格好で『戦争終了を記念しよう!』と言っているように感じられるからです。

  厳密な言葉の使用を避けてきたことにより、日本の過去が犯してきた誤りについて国民に深い反省の機を与えなかったように思えるからです。

私は、「8月 15日は第二次世界大戦で日本が敗北した日」と思っています。

 敗戦後 60年を迎える今、「戦争をしない国」を世界に表明してきた日本国憲法を踏みにじり「戦争をする国」に変えていこうとする政府主導の強引な違憲行為が押し進められているのは、『戦争を巻き起こし数千万人を犠牲にした責任について国民的反省をなおざりにしてきてしまったこと』と結びついているように思えるのです。

 敗戦時、 17歳で海軍予備生徒であった私は海軍軍制の下、学校敷地内(教室、寄宿舎)で軍隊生活つまり缶詰生活を続けていました。

 10 万人以上が焼死した3月10 日東京大空襲、その後も続いた空襲で、難を避けるため川に飛び込み蒸し焼きにされた人たちの火ぶくれした屍が、隅田川河口にあった学校の船着き場に次々と流れ込み、毎日のように掬い上げ無縁仏として弔う作業にもかかわっていました。

 「貴様達の乗る駆逐艦はなくなった!陸戦隊配属となる!3日間の最期の休暇を与える!」という配属海軍武官からの達しを得て、実家で過ごした休暇の後、日数も少ない日の天皇陛下の玉音放送でした。

 当日、責任ある学校教師、海軍武官たちは行方不明。クラスの世話役をさせられていた私は、「俺たちはどうすればいいんだ?米軍は間もなく上陸してくる!

海軍軍籍を持つ俺たちに危険はないのか?」とクラスメートから責め立てられ、学校関係者との連絡も取れず困惑している時、クラスメートの 名近くが缶詰生活の学校から逃亡、「逃亡者を出した」責任を問われた私は3日間ほとんど徹夜で逃亡者を探し求め、何人かは連れ戻しましたが大半は不明。

これが引き金となって肺浸潤で休学、療養に入った体験が思い出され、また、敗戦数日後、海軍特攻隊員として人間魚雷『回天』に乗り込み祖国防衛の任についていた小学校クラスメートが帰宅の途次失神状態で私の家に立ち寄り、絶望の境地に落とし込まれた二人で嘆き続けた時の無惨さが思い出される日が毎年巡ってくる8月15 日です。
    

 「終戦記念日に思う」
            笠原 修


 8月15 日というと、「敗戦」というイメージが濃厚である。

  私の生まれた新潟県新津には飛行機エンジンを作ろうとした中島重工業の工場跡、しかもどういう訳か爆撃一つ受けずボロボロになって戦後何年間もつっ立っていたイメージが強く残っている。

  この「敗戦」イメージは、この工場跡を中学校にした学校に私が入るまで、つまり工場跡の巨大な土台石が圧搾ドリルで穴開けられ、発破で崩されたのを見た時、初めて終わったようだ。

 十歳年上の兄は、父が物流関係の仕事に携わっていたため戦争に行かなかったことを後々まで恥じていた。

この兄は我々に戦い(?)の続行を強要し、学費は自分が働いて出すから、大学受験に受かるよう「大和魂」のスパルタ教育特訓を命じた。

そのような恩を受けたら一生長兄に頭が上がらないだろうと思い、私は商業高校へ入ることにより、直ぐ上の兄は高校卒業後、東京の教育映画に就職することにより、その難を逃れた。私には高校入学が敗戦の余波の終わりとなった。

 しかし靖国神社国営法案反対の運動をしていた 年、終戦記念日にちなんでテープレコーダーを抱え、靖国神社境内で遺族の方々にインタビューを試みた。

  「まあ録音なしで聞いてくれ」と言われ、「国家の神」として祭られる約束の下に応召され亡くなっていった兵士らの代弁を聞かされた。その代弁を初めから聞こうとしない自分に違和感を感じた。

しかも「彼らは騙されたのです」などと、反論する自分であった。

  三島が割腹自殺する前、自衛隊を除隊した知人と国防についても論じた。自衛本能を返上した時の人間は、こんなにノホホンと生きていていいのかというのが、我々の一番深い問いであった。

焼けどで皮膚を失い、赤身のまま歩き続ける被爆者、それが平和憲法において武装放棄を宣言した日本の姿だと認識すべきではないのか。

 北米に渡って驚いたことの一つは、「戦争は終わっていない」ということである。米人にもカナダ人にも、日本との終戦の後にも戦争があった。私を日本人と知るや真珠湾攻撃の正当性を問うてくるのである。

  私は日本の歴史には無知であったし、「原爆投下によってもはや戦争はやってならないものとなった」と信じていたから、初めは彼らには戦勝国だから終戦がないのだ、と思った。

  だが後日分かったことは、正当な戦争とか不当な戦争とかという議論を好む彼らは、原爆の被害がどんなものか本質的に分かっていないのである。戦争はあの極限までエスカレートすべきでない、ということを、世界は様々な人間と価値観が助け合ってこそ存続する、という立場から理解出来ていないのである。

 第一次世界大戦下の日系カナダ人は、参戦を申し出たが断られ、結局英軍の一部として参加した。

30年代の大恐慌の時代である。仕事がなくて食えない奴が参戦したという悪口を聞くが、参戦した兵士は、ロシアを負かした日本人のガッツの有るところ「大和魂」を見せてやる、と意気込んだ。

日系人指導者は、これが選挙権獲得につながり、排日撤廃を進めるものであれと願った。

  彼らの犠牲は直接選挙権獲得にはつながらなかったが、日系人の根性あるところを示すこととなった。(それが逆に第二次大戦の日系人強制移動に繋がったのだろうか。)

 国家は時として、人間の成すべからざることをする。戦争もその一つである。

人に殺してはならないと教え、敵国の殺害を命じる。また人には武装するなと教え、国家は武装する。現代日本はしない。細菌の侵入を守る皮膚のない赤身の被爆者のようだ。

  戦争はまだ止まない。これからも止まないだろう。

戦争で紛争が解決されると信じる人間がいる限り。そして戦争を武力で抑止しようとする者がいる限り。

日本の無防備は、戦争を止めさせる戦いの道具となりうるだろうか。「世界は様々な人間と価値観が助け合ってこそ存続する」という生き証言になりうるだろうか。

 

心の敗戦記念日
   ケース・カワグチ(KASE KAWAGUCHI)

 私は北朝鮮で生まれ、満州で育ち、戦後 11年余しか日本には住んだことのない誇り高きカナダ市民である。

セックスボケ、銭ボケ、食いボケ、人権人道ボケどもよ、敗戦後 59年、今日本は完全に心の敗戦を迎えている。バカ殿達に率いられたバカ者達よ、目覚めろ。

 私は昭和27 年商業高校を出て遠洋マグロ漁船の機関員になった。 年にはレーダー、ジャイロコンパス、自動操舵、急速冷凍などを装備した最新鋭の大型漁船の機関士をしていた。我々の祖父、父達は敗戦の焦土から僅か 年たらずで復興を成し遂げ、高度経済成長の元を作ってしまった。

日本を代表する自動車企業らのザマはなんだ。心の敗戦、心の退廃自失が原因ではないか。元を正せば昭和 20年8月 15日の敗戦が根源にあると私は思う。

 我々の父母、祖父母達は戦前の教育勅語、五ヵ条のご誓文、修身をもとに人の道を徹底的に教え込まれた、世界でも稀に見る高潔な心をもった人々であった。

それでも多くの出来損ないの国賊どもを生み出した。戦後この国賊ども政治屋、共産屋、進歩的文化屋、物書き屋、テレビ屋どもによる国民総教育の結果が心の敗戦である。

国賊どもは我々の先人達を世界史上最悪の極悪人達に仕上げてしまった。教育勅語のどこが非民主的か。

「君に忠」か、君とは天皇とその家族日本国民である。カナダの国へ来ようが、どこへ行こうがその国と市民に忠誠を誓えないバカ者達は受け入れられない。

終戦記念日だ、平和、人道、人権、謝罪だ、やれ援助だとカッコ良くわめく前にしっかりと心の敗戦をかみしめて心の復活をしたらどうなのだ。

人の道を教え、人をつくる教育を復活しろ。

 日本人の血が流れ、日の丸の焼印のある私が時に憤死するくらい憤りを感じることが二つある。セックスボケと反米親共産中国である。

 ここカナダではプレイボーイやハッスラーなどの雑誌はマイニングキャンプやブッシュパイロットのオフィスあたりでしか見かけない。

AVビデオもオイルリグのキャンプで一度見ただけである。

私の家には日本の週刊誌、小説、ビデオテープ、新聞などが回ってくる。週刊誌は家庭向けのものにまで、微に入り細に入り読むに耐えないセックス記事、写真や絵が満載されている。

こんな雑誌をセックスボケどもは家庭、電車、バス、外国行きの飛行機の中まで持ち込む。

  写真屋は銭のないカッコ良い女達を裸にして官能の芸術とかいう写真集を売りまくる。銭のあるボケ女達はセッセとホストクラブに通う。

ボケ娘達は沖縄まで黒人兵狩りに行く。ブッシュ大統領には性奴輸入大国と指名される。

集団売春をして国際指名手配される。

日本人達には名誉とか恥とかの尻尾が残っているのか。世界中からセックスメニアックと呼ばれる日本人達よ、よくよく心にきざみつけろ。

 また新聞は、よくもあれだけ反米親共産中国の記事を集めるものだ。日本の新聞屋ども、物書き、写真屋どもには書いてならない事、表現してはならない事の分別がない。

常識とか良識、人間としての良心の尻尾の先っぽも残っていない。誠に下品極まりない。カナダの一流紙グローブアンドメールから三流のコミュニティ新聞まで比較検討してみたらどうだ。

  日本人どもよ、戦争とは古来、正義と正義の戦いであった。キリスト教、新教、旧教、モスラム、民主主義、共産主義、人間の正義はごまんとある。

 過去 年間、我々の国々、カナダ、アメリカは想像を絶する変貌を遂げた。日に日に人間達の正義に近づきつつあると私は信じている。

  敗戦後、日本は世界最強のアメリカの軍事力に守られ石油から全ての資源、食料を輸入し、車、カメラ、TV 、鉄鋼、船舶など高価な商品を北米を始め世界中に売りまくり、アメリカに続く経済大国にのし上がった。

安い北米産の小麦や大豆を輸入してビールやウィスキーを造って飲みまくる。

  うどん、ざるそばをすすり、パンを食べる。そして反米だ、イラクだ、人権人道だとわめく。日本人よ、それでも反米ならば食らうな、飲むな、車を走らせるな、電気を使うな。反米では立っていけないのだ。

北米や世界中から稼ぎだした金を中国に友好だ、援助、謝罪、投資だと湯水のように注ぎこみ、日中合作で世界第二の軍国に仕上げてしまった。

  それに対する見返りはパンダとトキと密航者、犯罪者の群れ。従軍慰安婦、南京虐殺 万、強制連行などの汚名ばかりである。有償援助、投資は一銭も回収できないと、今、肝に銘じておけ。

 日本人達よ、今しっかりと心の敗戦に目覚め、心に刻みつけ、お前達の高潔な心をもった曾祖父母、祖父母たちに土下座して謝罪しろ。

教育勅語を復活して人の道をわきまえた人になれ、人を造れ、憲法を改正して普通の独立国家になり、自衛隊を国軍にしてアメリカその他の自由諸国としっかり手を結び、国力に応じた犠牲をはらえ。

 なにか事あるごとにアメリカの影に隠れて、今度はお幾らお支払いいたしましょうかとは何事だ。バカ殿達よ、日本人達よ、恥ずかしくないのか。日本人の血が流れ、日の丸の焼印のある私はこの国の人々に恥ずかしくて仕方がない。

  平和も人権、人道、豊かな生活も金ではない。人の道をわきまえた人が作り出すのである。国際人だ、地球人だとわめく前にしっかりと人の道をわきまえた日本人になれ、それでこそ国際人になれるのである。「人を造れ」。

 世界 億の人々が平和と豊かな生活を待ちわびている。日本人よ平成の若者達よ、志士達よ、幸運を祈る。

終戦記念日に思う
        増原康子

 終戦記念日を思うと広島原爆のことが一番に頭に浮かぶ。その当日私は広島県立福山高等女学校二年生であった。その頃の私達は学徒動員で偽装用のネツを編んでいた。

  父は役所の仕事で広島市に出張し八月五日夜会議のあと一泊する予定だったが家のことが気にかかり、その夜最終列車で帰宅した。

次の朝八月六日八時十五分原爆は投下されたのだから父は奇跡的に助かったのである。

  広島市に住んでいた従兄弟の勉君は登校した小学校で姿を消している。主人の従兄弟一人、私の従兄弟一人も原爆手帳を持っている。

私の故郷福山は広島原爆の二日後の八月八日二十二時二十五分、B29 九十一機で約一時間空爆され焼け野原となったのである。

その日私の目の前で起きたことを書いてみると、日がとっぷりと暮れていた。

  空襲警報が鳴り渡り市町村全部灯火管制で真っ暗となる。しばらくしてB29 が一機来襲、市上で照明弾が炸裂そのあとB29 の編隊が現れ旋回し、焼夷弾を投下始める。すさまじい音、市一帯は火の海となった。

  B29 の機体がこの火災で紅色に映えて見えたのも強烈な印象であった。遠くに高射砲が何十回とも上がったが、B29 の飛んでいる1/3の高さにも達せず花火のように散っていった。子供心に哀れ無力という思いだった。

  夏の夜、森の高台の上に聳える福山城の天守閣が炎の中に三時間も立ち続け炎上している様は雄姿と言おうか悲愴な眺めで皆涙もなく唖然として見守るばかりだった。この一生一度の城の焼け落ちる様はどんな時代劇の映画より優っていると今でもそう思っている。

このように酷しい爆撃を受けたのも広島師団福山第四十一連隊があったからであろう。

  私達女学生はこの連隊の焼け残った宿舎で二年余り勉学にいそしんだ。その後福山市は全国に先駆けて復興が進んだことは市民の誇りであった。ところでこの七月下旬日本からの客人を迎えた際、知覧特別攻撃隊の本を頂いた。

  終戦前日まで日本平和と勝利の為に若き命を捧げきって下さった青年達の真心を拝読し涙止まることのない思いだった。今年七月は例年になく酷しい暑さが続いて汗がじわっと出てくる。

  その中にあって特攻隊の遺書、日記、手紙は暑さを吹き飛ばし見も心もしゃんとしてくる。ハラハラと落ちる涙は自分の身を捨てきって無我の心を貫き通して下さったその方達への感謝のはなむけの涙なのである。不足をつぶやいてはならない精一杯自分に定められた道を進まなくてはと心からそう思った。

  私は広島、長崎の地を訪れ犠牲者へ黙祷を捧げたが故郷福山の被災についてはあまり考えず渡加五十年が去っていたが、ここに福山の爆撃の思い出を書くことが出来たのは何よりと思う。

広島の平和の祈りの日である終戦記念日には福山で当日亡くなられた三五四人の方々の御冥福を特に思い浮かべて平和の祈りをしたいと思う私です。

終戦記念日に思う
      菅原美智子

 あの日は朝から凄く暑い日だった。私はクラスの児童を連れて、空き地を耕し蕎麦の種を蒔く作業に出かける寸前、正午には玉音放送があるので、職員室に集合するようにと校長先生に言われた。

蕎麦はどんな荒地でも、芽を出し育つのだと先輩に教えていただく。子供達と苦労をして蒔いた蕎麦畑は、その後どうなったのかは知る由もない。

同僚とラジオの前に畏まって(かしこまって)聞いた天皇陛下の御言葉は、私にはよく聞き取れず、わからなかったが、若い男性教師の一人が涙をためて俯いていたのを見ると「ああ、戦争に負けたのだな」ということがわかった。

これから日本の国はどうなるのだろうと不安な気持ちになった。

その後の学校教育の方針も定まらず、困難に陥った。先ず教科書の軍国主義的な言葉は墨で塗りつぶし、又そういう関係の書籍は校庭の隅に積み重ねてぼんぼん燃やした。あの暑い日の炎と煙を8月がくると、きまって想い出す。

 「鬼畜米兵」と言わされ、思わされ、国民一体となって戦った怨念を焼き払ったのかも知れない。私の青春は正に戦争時代、女学校に入学しても、勉学の時間よりも勤労奉仕(農家の手伝い)の時間の方が多かったと思う。

  専攻科に進学して間もなく、私達は神奈川県小田原市にある軍事工場に学徒動員として勤務することになる。生まれて初めて生家を離れ遠い小田原での生活は辛い寂しいこともあったが、その反面楽しいことも沢山あった。

  小田原は富士山が目の前に見られ、海も近くみかんも実るこの温暖の地が気に入って、結婚するなら小田原の人と思ったこともあった。

親しい友人を沢山つくり、 年過ぎた今でも当時のことをなつかしく思い出している。

  工場では飛行機の部品・点火線を作る仕事で、日の丸の鉢巻をきりっとしめて、大きな旋盤を操作しての作業を、一生懸命『国の為』『勝つまでは』と頑張った昔の少女私は今カナダで老齢となり、追憶の日々を過ごしている。

 テレビでイラク戦争のニュースを観ていると若人たちの雄叫びが聞こえる。

この人々も自分の信念に向かって一生懸命なのかも知れない。然し戦争はなんのメリットも無い。暴力をふるい殺し合って唯悲惨なだけ。国と国との戦いは子供の喧嘩のようなものと思う。

  ひとつしか無い玩具を奪い合って強い子が自分の物にする。どうしてみんなで話し合い譲り合うことが出来ないのだろうか。自分の利益だけを考えず国と国とがよく話し合って、悲惨な戦争は絶対しないという契約を結ぶことを私は提案したい。机上の空論とは思うが。